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2019-10-09

東西境目に芭蕉も通った歴史の道<寝物語の里/滋賀県米原市・岐阜県関ケ原町>


西日本と東日本を分ける境目の溝

琵琶湖を要する湖国・滋賀県。山間部で接するいくつかの隣県のうち、こちらは岐阜県との県境。ドギーの目の前にある溝が両県を分ける境界になっていますが、ここを境に様々なものが変化する東西境界でもあります。

中山道の宿場町にある県境

国道21号・岐阜県側の入口。奥はJR東海道本線

滋賀・岐阜の県境に接する不破郡関ケ原町(ふわぐんせきがはらちょう)。

この町で慶長5年(1600)に勃発した天下分け目の戦い「関ヶ原の合戦」
東軍の徳川家康が戦に勝利し、その後江戸に幕府を開きいたのは史実の通り。結果的に政治の中心が江戸(現東京)へ移り、徳川政権が終わった明治以降も、一時的なものを除いて今に至るまで東京が日本の中心であることは変わらない。

合戦を境に「関西/関東」の概念が生まれ、各々の文化が発達していく契機となった場所とも言える。

寝物語の里は中山道にある

江戸時代に制定された五街道<東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道>の一つ「中山道(なかせんどう)」
東海道と同じく江戸・日本橋を起点として、日本の内陸部を経由しながら滋賀県南部の草津で東海道と合流して京の三条大橋へ向かう、かつての日本の大動脈の一つ。

各県の領域を示す標が立つ集落

滋賀・岐阜県境であり東西境界となる寝物語の里は、その中山道道中にあります。

 

寝物語の里

溝が滋賀・岐阜県境線

中央に通っている溝が、滋賀と岐阜を分ける県境線。

 

通常県境となるのは、山の稜線や川・海など、人が容易に行き来することができない自然要害が多い。当地のように平地であったり、連続する集落が二県(二國)に分けられる地点は珍しい。

他でパッと思いつくところでは、

福岡県大牟田市/熊本県荒尾市

新潟県村上市/山形県鶴岡市

鳥取県米子市/島根県安来市

地図をくまなく見て行けば、他にも何地点かは存在すると思いますが、やはりそれほど多くは無い県境の形です。

 

県を越えたことを知る材料

手前は「滋賀」のナンバープレート

県が変わった事を知る一番の手がかりが自動車登録番号標こと「ナンバープレート」

こちらの民家に停まっている軽自動車のナンバーは「滋賀」。そこから100mも離れていない奥に見えるワンボックスカーは、

お隣の家は「岐阜」ナンバー

「岐阜」です。

自動車の登録に関しては基本的に県ごと。例外として「富士山」ナンバーだけが、静岡・山梨に跨っています。

滋賀ナンバーを管轄している陸運局は、守山市。
滋賀ナンバーを管轄している陸運局は、岐阜市。

この場所からであれば岐阜市の陸運局の方が距離は近いのですが、県境を挟んでどちらに居住しているかで出向く省庁が異なるわけです。まあ、今時個人で陸運局へ行き登録や名義変更を行うことはレアケースですね。

 

県が変わったことを知る別の判断材料として「選挙ポスター」があります。
こちらも近かろうが遠かろうが、基本的に選挙区は県ごとに分けられているので、県が変わると掲示しているポスターと政治家さんが変わります。
ただしこれも現在は人口の少ない県同士が「合区」となっていることがあり、鳥取/島根と徳島/高知では、その限りではありません。

他には電話の市外局番や路線バスの運行会社が変わることがありますが、前者は自分の地元の尼崎市のように歴史的な開設経緯から大阪市と同じ市外局番になっていたり、後者は県境特例で隣県のバス会社が運行を担っていることがあり、県越えの判断基準としては弱いです。

 

お宿の縁側ごしに隣県とおはなし

「寝物語の里」の案内図

県境地点に、かつての中山道59番目の宿場町・今須宿(いますじゅく)を紹介する資料が掲示されていました。挿絵の中央に「江濃両國境」と記された標柱が立っていることがわかります。

そして今と違って、國境(くにざかい)の両側には民家や旅籠(はたご)が立ち並んでいるのも見て取れます。

寝物語の由来が書かれた石板

このことが「寝物語」の由来た。

國境で近江(おうみ)と美濃(みの)が分けられていると言っても、宿同士は目と鼻の先。それぞれの話し声がよく聞こえたことでしょう(近江…現滋賀県、美濃…現岐阜県南部)。

歴史的には常盤御前(ときわごぜん)や静御前(しずかごぜん)が当地の旅篭で宿泊した際、聞こえてくる話し声から散り散りになっていた旧知の仲間の存在に気付き、縁側越しに偶然の再会を喜んだ、とされる。ここで挙がる両名は、源頼朝に追われた者という共通点があります。

 

西日本と東日本の分け目

西日本在住のドギー

県境ナビゲーター・しょう。かつての江濃國境にやってきました。

この場所にはかつては旅篭や関所が立ち並んでいたと言いますが、現在は空き地になっています。

 

「関西/関東」
という地域名がありますが、その西と東を分ける「関」はどこ?
誰しも疑問に思う事ですが、一説には「関ヶ原」。すなわち当地の地名から一文字取っての名称と言われます。ただし合戦時点では

「関西」…京都・大坂
「関東」…名古屋

を指していたことでしょう。江戸(東京)が大きく発展したのは徳川幕府以降のものですし、神戸は明治の開港以後に発展した港町で、この時代は寒村に過ぎません。文字通り関ヶ原の西にある地域か東にある地域か、です。

関西・関東を並べて耳にすると、西と東の比較を思い浮かべますが、それは近畿地方と関東地方の比較、もしくは大阪と東京の比較であって、西日本・東日本とはノットイコールですね。

 

現在の寝物語の里は、西日本と東日本の境目。この溝を境にして様々なものに変化を見ることができます。

関西弁イントネーション/標準語イントネーション
どん兵衛の出汁の味→カップに「W」「E」の記載がありますが、前者が西日本に流通している昆布出汁、後者が東日本に流通している鰹出汁
卵焼きに塩を入れるか・砂糖を入れるか→一般的に前者が西日本、後者が東日本
カレーに入れる肉→一般的に西日本は牛肉、東日本は豚肉
阿保と馬鹿→一般的に前者が西日本、後者が東日本

バラエティ番組の題材にもなる「日本の分け目」が此処にはあります。

溝を越えるとそこは東日本

西日本在住犬、溝を越えて西日本から東日本へ。漏れなく岐阜県側にも立たせてもらいました。

 

昨今は室内犬が多く、住んでいる町内で一生を終える…というワンチャンも多い事でしょう。けれど、そらうみ家の飼育方針は違う。

「短い犬の一生の中で、どれだけの経験をさせてやることができるか」

とりわけ飼い主が旅人宿を運営することもあって、「どれだけの経験」が何なのかは「旅」になりました。

 

松尾芭蕉が何度も通った歴史の道

野ざらし紀行の句碑

寝物語の里こと今須宿(いますじゅく)は、松尾芭蕉も通った道。

「正月も 美濃と近江や 閏月/はせを」

前年に死去した母の墓参を目的として、貞享元年(1884)8月から翌4月まで江戸から生まれ故郷の伊賀への旅の行き帰りを記した紀行文「野ざらし紀行」
往路は東海道から伊勢を経て伊賀へ。復路は大和・京を経由して中山道へ。その際に寝物語の里を通過して、こちらの句を詠んでいます。

 

芭蕉が野ざらし紀行の旅を終えてから5年後の、元禄2年(1689)。この年3月から8月までの約150日間の旅が、

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也(つきひははくたいのかかくにして、 ゆきかうとしもまたたびびとなり)」
の序文で始まる、日本を代表する紀行文「おくのほそ道」です。

江戸を出て東北・北陸と回り大垣で終えるこの旅でも、終わり間近で当地・寝物語の里を通過している。

これらの旅路で当地に投宿した記録は残されていませんが、旅ごとにこの場所を通っているところを見ると、道の選択肢があまり無い時代だったことはもちろんですが、芭蕉にとって馴染みのある街道であったと言えます。

 


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