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2020-11-25

九州最東端の岬で見ることができる要塞跡・後編<鶴御崎/大分県佐伯市>


九州最東端であり国防最前線として本土防衛が行われていた、大分県佐伯市の鶴御崎(つるみさき)。要塞としての痕跡を捜し歩きます。

鶴御崎(つるみさき/大分県佐伯市)

 

石垣に擬装された要塞

灯台の土台部分は一見石積みの壁

ここからは陸軍要塞としての鶴御崎のマニアック部分を探索することにします。

灯台の土台部分のこちらの壁。気にしなければただの石垣ですし、感じるとすれば上部に設けられた窓が少し不気味な印象。

石垣に見えるのもそのはず。こちらは「擬装(ぎそう)」によるもの

本体はコンクリート壁の「兵員詰所」で、それを隠蔽するために石垣を張り付けて農地等に見せかけています。この擬装手法は対岸の南予地方(なんよちほう、愛媛県南部)の要塞跡でも見ることができる特徴。南予各地で見ることができる段畑風景を装っています。

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大分県の沿岸で段畑を見ることができるのか定かではないのですが、この場所は九州大分であっても「豊予要塞」の一部として築かれたものであるため、四国愛媛の佐田岬要塞と同じ規格で建設されていても不思議ではありません。

 

豊後水道に突き出る鶴御崎

岬の先っちょへ続く遊歩道

灯台・兵舎横を通り過ぎ、その先の階段を下りて本当の先端へ向かいます。上から見るより下から見上げた方が、隠されている要塞跡が見つけやすいかなあという点と、それを抜きにしてまずは岬の先っちょ到達をドギーと目指します。

九州最東端・鶴御崎

広い九州、東の端っこがこちら。

太平洋から瀬戸内海への入口・豊後水道

木々の間から海と対岸に位置する四国愛媛がうっすら見えます。

心なしか海がまあるく見えるような

美しい海を美しいものとして穏やかに眺めることができるのも、平和な今があるおかげです。

ドギーと九州最東端到達を記念して一枚

特に岬巡りをしているわけではありませんが、旅の題材として「岬」「先っちょ」は好素材であるように思います。

 

岬先端の区画

左の道が灯台から下りて来る遊歩道

要塞探索を再開します。早速あやしい空間を発見!

精緻に積み重ねられた大規模な石垣

岬の先端は集落があるわけでなければ、農地として開墾されている様子はあまり見られません(要塞化により小集落が立ち退きになった可能性は考えられます)。
そのような場所にあって、人口建造物の最たるものである石垣の存在は異例。基本的に当区画の石垣は擬装の意味合いがあるように思いますが、この部分に関しては上部に位置する軍事施設をより強固にするための土台基礎工事・治山工事のような印象を受けます。

鶴御崎石垣と防火水槽の位置関係

山側(=石垣の傍)にも貯水槽跡らしきものがありましたが、谷側(=海)にも同様の物が残されていました。

世の中から隔離された要塞ゆえ、飲料水も雨水頼みであるなど天水利用が基本。これが兵舎横の貯水槽なら生活のために水を貯めていると言えるのですが、ここはどうでしょう。それほど広い空間では無いので、兵隊さんたちが暮らしていた場所ではないような気がします。

だとすると考えることができるのは防火水槽。要塞内での火災発生時や敵機の爆撃などにより施設が炎上した際に消火活動を行うための水だったのではないでしょうか。

 

迷彩塗装跡

繁茂する樹木の下地に迷彩塗装が残る

下りてきたのとは違う道を通って、要塞の遺構を見ることができないか探索します。

こちらで見つけることができたコンクリート壁。すっかり植物が繁茂していますが、その裏地にはっきりと迷彩塗装が施されていることが分かります。
この塗装方式が陸軍標準なのかどうかそれはちょっと分かりかねるのですが、対岸の佐田岬にある砲台跡で見ることができる迷彩模様と酷似しています。

【関連記事/コトバスコラム執筆分】鮮やかな迷彩塗装が往時の姿を留める砲台跡<佐田岬第二砲台/愛媛県>

 

貯蔵庫跡

貯蔵庫と記された立て札が立っている

こちらは食糧など生活必需品が保管されていた場所でしょうか。くまなく散策していると、炊事場やトイレの痕跡が見つかります。寝泊まりしていた兵舎もこちらの区画に存在したのではないでしょうか。

同じ「保管」と言っても、弾薬などの兵器等ではない印象を受けます。それにしてはちょっと無防備。敵機の攻撃により引火してしまうと基地そのものが吹き飛んでしまうので、軍事物資は地下やより分厚く設けられたコンクリート区画等で保管されるのが通例です。

崩れつつある石垣

山でこのようなものを発見すると、イノシシなど獣害から畑地や集落を守るための「シシ垣」と言えるのですが、この場所においてはそれではないと思われます。ここでは物資と兵員を守るための防護壁と言った感じでしょうか。それは爆風などもですが、強く吹き付ける海風などから要塞を守ることも想定されていたのではないでしょうか。

防空壕と思しき無骨な穴

防空壕も様々な形があるようで内部をコンクリートや支柱で補強したものや、爆風が吹き込まないように扉がついているもの。

こちらはいかがでしょうか。こわくて中に入っておりませんが、おそらく「掘っただけ」のもの。いわゆる「戦時急造品」なように感じます。穴の口が大きいので機銃掃射を受けたなら壕内に弾丸が降り注ぐでしょうし、近くに爆弾が落ちたなら爆風が吹き込むか衝撃で壕が崩れて生き埋めになっていたかもしれません。それでいくと、こちらの要塞運用時は攻撃を受けなかったことは幸いでした。

戦前や大戦初期は日本国・国民共に余裕が有ったので、防空壕を造るのであればお金と時間を費やす余裕がありました。けれど「空襲」はもちろん家屋を狙うような「無差別爆撃」が行われるなど、庶民には想像し難いところ。その時期に防空壕が掘られることは、あまりなかったようです。

【関連記事/コトバスコラム執筆分】四国初めての本格的な防空壕<八幡浜第一防空壕/愛媛県八幡浜市>

しかしながら大戦末期になると本土空襲が激しくなったため、自分たちの命を守るため防空壕を設置する必要に迫られました。かと言って資材は戦争優先。工事を担う働き盛りの男性はほぼ戦争に駆り出されていて、あらゆるものが不足している中でどうにか防空壕が掘られた。
戦後間もないころの教育で「防空壕に入ってはいけない」「危険だから埋め戻された」というエピソードは、そんな突貫工事によって掘られた不安定な防空壕が多かったことに一因があります。

防空壕の横に岩をくり抜いたであろう切通の道があります。ここから先へは行かなかったのですが、行きにくければ行きにくいほど要塞の核心部に迫ることができるかもしれません。それには装備と時間、そして犬連れで行くのは向いてないなと思い、ここで引き返しました。

 

昭和後期生まれの灯台

鶴御崎灯台周辺の森の中には、かつての軍事要塞が静かに眠りについています

軍事のみならず航海上でも重要になる豊予海峡。そこに突き出た鶴御崎を知らせるために灯台の光は必要不可欠ですが、こちらの鶴御崎灯台が築かれたのは昭和56年(1981)3月。自分よりも若い、意外なほど新しい灯台です。

もっとも、灯台の前身と言える建造物は明治27年(1894)に建てられた海軍望楼(かいぐんぼうろう)が起源。そちらが灯台の代わりを担っていたと考えることができます。軍事施設と一体の岬だからこそ、場所を知らせる灯台が設置されなかったのかもしれません。

 

鶴御崎灯台

 

旅の期間

平成29年12月


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