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2020-01-27

豊臣政権集大成の地おさんぽ<名護屋城/佐賀県唐津市>


この丘に立つと異国の地は見えるのかな?

かつて天下人・豊臣秀吉はこの地この場所に立ち、全国の諸大名を指揮して朝鮮半島へ兵を送りました。結果的にこの無理等が祟り豊臣家自体の滅亡を早めてしまいます。そんな豊臣政権が完成された地を旅犬ドギーと訪れました。

肥前名護屋城

名護屋城(なごやじょう、佐賀県唐津市)

字は違うものの読みを聞いて思い浮かぶのは、ほぼ間違いなく金のシャチホコで有名なあの名城。

それと区別するために、こちらは「肥前名護屋城」と表示されていることがある。

名護屋城周辺の諸大名の陣屋配置

始まりは豊臣秀吉が「唐入り(からいり、文禄の役・慶長の役)」に際し築いた砦。地理的に有利な面はもちろん、自身の出身地である那古野(なごの)と類似した地名に縁を感じ、大陸へ渡る前線基地として周辺には各大名の陣屋、後に天守閣が築かれました。

那古野は現名古屋市西区・中村区に跨る地名。時代によっては「なごや」と呼ばれることもあったそうです。

名護屋城(なごやじょう、佐賀県唐津市)

整備協力金を納めて入城。
なんと嬉しい「ペット入場OK」。現在は城郭が存在せず城跡のみ。

 

伊達政宗に与えられ仙台へ移された大手門

石柱にある内務省は明治6年(1873)から昭和22年(1947)の間に存在した省庁

お城の正面入口となる場所。
在りし日はここに門があったようですが、唐入りが終わり城が役目を終えると門は解体されて伊達政宗(だてまさむね)に与えられ、仙台城に転用されたと伝わっています。

唐津城下へ繋がる道

ここから南方向・唐津城下へ向かって「太閤道(たいこうみち)」と呼ばれる街道が通じていたようです。

 

お城からの展望と各藩の陣屋

階段を上がってお城へ登楼

緩やかな坂を上がっていくと、

展望の良いところに出て来たのだけれど…

海が見渡せる場所に出てきました。天気があまり良くないのが誠に残念。

見えている海上橋は「呼子大橋(よぶこおおはし)」
対岸の加部島との間に平成元年(1989)に橋が架かり離島ではなくなった。橋が架かっている周辺が呼子(よぶこ)の街で、朝市や名物のイカ料理を求めて、今日観光客が多く訪れます。

徳川一門の名

名護屋城のすぐ近くには徳川家康が陣を構えたと記された場所があります。周辺には家康重臣の本田忠勝(ほんだただかつ)の名前もあり、一帯が徳川一門の拠点となっていたことがわかります。
西国大名だけでなく東国からも漏れなく大名を呼び寄せている辺り、唐入りの規模の大きさを知ることができます。

 

三ノ丸

名護屋城址三ノ丸と記された石柱

いよいよお城の中枢へ進んできます。こちらは「三ノ丸(さんのまる)」と呼ばれていた場所。

三ノ丸の役割

いざ敵に攻め込まれても、天守にたどり着かせないよう応戦、もしくは形勢不利と見た場合に殿が逃げるための時間稼ぎをする場所が三ノ丸。警固を行う侍の詰所があったとされる。

 

自ら天主と名乗った豊臣秀吉

本丸到着

太閤さんが居た場所、本丸へ間もなく到着です。

名護屋城天主臺地(なごやじょうてんしゅだいち)

かつて天守閣があり、太閤秀吉公が居た場所。

「天主」は通常「天守」と記すが、ここでは前者の方を好んで使用した。
天主は天の主、すなわち神様の意味があり、当時の秀吉は国内に敵無しの天下人(てんかびと)。日本という国の中では自身を神格化したとしても、異を唱えることができる者は存在しません。実際死ぬ間際で自分を八幡神として祀るよう遺言を述べたとも言われる。

ただそれは、後の天下人でもある徳川家康も「東照大権現」の神名で各地に祀られているので、死してもなお権力を誇示することは、天下人のステータスだったのかもしれません。

「天主」
と言えば九州地方で見ることができる教会の別名「天主堂(てんしゅどう)」に見ることができますが、名護屋城が造営された時期の秀吉は既にキリスト教に対して態度を硬化させている時代。
「天主はキリスト教の神ではなく自分だ」のアピールがあったのかもしれません。

 

天主台から見える景色

橋で繋がっている島は加部島

先ほどの三ノ丸手前の展望所より、呼子大橋と加部島をより見渡すことができます。

天主からは諸大名の陣地跡を見ることができる

島津、上杉、真田…

大河ドラマにも出てくるような有名武将の名前がズラリ。

秀吉と家康の二人の天下人。
徳川家康は関ヶ原の合戦・大坂の陣などで自分に臣従しない大名を滅ぼしていったイメージがありますが、豊臣秀吉は征服した大名をどんどん配下に引き入れていきました。その結果、元々仲が悪かった武将同士が作戦行動を共にすることになった例も多く(戸次川の戦いなど)、そこが関ヶ原の戦いの時に西軍分裂を招き、事実上豊臣家は秀吉の一代で終わってしまった。との見方があります。

けれど(良いかどうかは別として)反乱分子をいくつも抱えながら、力を持った武将たちを集めて国外で作戦行動を行う統率力は、「人たらし」と呼ばれた秀吉の統率力を伝えるエピソードの一つです。

 

名護屋城その後

所々に人為的に破却された跡を見ることができる

天主台に立つと、今では平和的に海の向こうの世界を想像することができます。

二度目の唐入りである慶長の役(けいちょうのえき、1597-1598)が秀吉の死と共に作戦中止。名護屋城はその役目を終えた。

天守閣は解体された後新しく築かれることになった唐津城の築城に転用。
また島原の乱(1637-1638)では放置されていた城が反乱軍に使用されたことから、乱後に全国各地で城郭の廃棄が行われ、名護屋城も二度と城郭として使用できないように石垣の四隅が切り取られる等、人為的に破却された。

また外寇の拠点となった名護屋城を破却することは、今は明(ミン)や李氏朝鮮を侵略する意思はない」と江戸幕府が関係改善をアピールする行動でもあったようです。

 

殿様の天主台おさんぽ

かつての日本の中心に立つドギー

基本的にワンちゃんは高いところが苦手。好奇心があって台の上などに登ってみるものの、下を見るとお地蔵さまのように固まってしまいます。

現在の佐賀県と言えば都道府県の中で少々地味な存在ですが、この場所が豊臣政権晩年の一時期、日本の中心になったことはあまり知られていません。
天主台からのロケーションと開放感は、数ある城址の中で群を抜いていると感じます。

 

名護屋城跡


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