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2020-05-30

盛んに噴煙を上げる山と熊野三山<薩摩硫黄島/鹿児島県三島村>


旅犬ドギーと共にやってきた鹿児島県の硫黄島(いおうじま)。噴出する鉱物と海水が交じり合うことで変色する茶色い海水。ここでは海岸の砂も茶色です。

茶褐色の海と砂が特徴的な硫黄島の港


俊寛僧都

俊寛(しゅんかん/1143-1179)

今日、硫黄島の事を耳にする機会と言えば能や歌舞伎の世界。そこで登場するのが、三島総合開発センター前にある銅像の人物「俊寛」です。

源氏を祖とし、平家打倒を企てたとして(鹿ヶ谷の陰謀・1177年)南海の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流され、その地で生涯を終えた平安時代の真言僧。僧位の「僧都(そうづ)」をつけて「俊寛僧都(しゅんかんそうづ)」と呼ばれることも多い。

平家物語で鬼界ヶ島はこのように紹介されています。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。

この伝承から、

鬼界ヶ島=黄海ヶ島(読み同じ)=硫黄島

しかしながら鬼界ヶ島が硫黄島が配流地である決定的な証拠は無く、読みが同じの「喜界島(きかいじま・鹿児島県)」や、字が異なる「伊王島(いおうじま・長崎県)」等にも俊寛伝説が残されています。

俊寛は源氏方の人物で、まだ平氏に分があった時代の話。

これより南へ下った吐噶喇列島(とかられっとう)には平家落人伝説があり、その名も「平島(たいらじま)」や平家由来の名を冠する活火山島「諏訪之瀬島(すわのせじま)」、源氏の追手が来ないようわざと良くない字を島名に当てた「悪石島(あくせきじま)」など。
日本を二分した源平合戦の名残は、日本本土から南へ連なる絶海の孤島群でも見ることができます。

硫黄岳の近くへ

まずは硫黄岳を目指します

山は活発に火山活動を行っていて立ち入ることができないので、できるだけ近くまで行って眺める作戦。

山へ上がる道は緩やかな舗装路。旅の荷物を担いでここを上がるわけではないでしょうから、それほどきつい道のりではありません。

噴煙がすぐ近くに見える

舗装路が途切れると景色が荒野へと変化していきます。いよいよ火山近しというところ。

元々硫黄採掘を行う鉱山があった場所なので、道路と思しきものはこれからも続いています。けれど閉山になってしばらく経つ今は、その道が分かりにくくなっているか、土砂崩れにより損壊してしまっています。

登山はここまで

ところどころ高温の噴気が出ているような場所は、靴を履いていない彼にとって危険な場所でもあります。山をこれだけ近くで眺めることができたということで目的達成。

これから下山して海岸沿いの温泉へ向かいます。

 

硫黄島の熊野詣

祀られている石の向こうには山の谷間

海へ下る道中、整備されて山を拝むことができるようになっている場所がありました。

那智の滝を模した遥拝所

まとまった雨量が記録された時、その水が割れ目から流れ落ち滝になるらしい。昔から島の人々はこれを那智の滝に見立て手を合わせていたようです。

それは俊寛と一緒に鬼界ヶ島に流された「平康頼(たいらのやすより/1146-1220)」が眺めていた景色でもあります。

平氏の一門にありながら領内にある源義朝(みなもとのよしとも、頼朝の父)の墓所を再建。その武士道精神を評価され後白河上皇(ごしらかわじょうこう/1127-1192)に取り立てられ熊野詣を行うなど、時の朝廷から信頼が厚かった人物。

鹿ヶ谷の陰謀によって島流しに遭った康頼は、望郷の念から千本の卒塔婆(そとば)に歌を記し海へ流した。今で言うところの、無人島から瓶に手紙を入れて流すようなイメージ。
そのうちの1本が安芸國厳島(あきのくにいつくしま)に流れ着き、それを手に取った平清盛が心を打たれ赦免(しゃめん)。配流の翌年に赦免船が島に来航、帰京することが出来たと伝わります。

しかしながら、陰謀の主犯格である俊寛は許しが下りることは無かった。絶海の孤島で途方に暮れたその生涯は歌舞伎の題材となり、後世に伝えられることになりました。

硫黄島にある熊野三山

島内には那智の他に本宮(ほんぐう)・速玉(はやたま)もあり、熊野三山全てが揃っています。

武家でありながら朝廷に仕え、熊野詣の経験を積んだ平康頼ならではのエピソードが、硫黄島に伝わっています。

 

硫黄島

 

旅の期間

平成28年2月

 

続き

 

硫黄島の旅記

 

 

 

 

 


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