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2020-04-20

北大東島が日本になった日を示す国標<西港公園の国標/沖縄県北大東村>


西港に戻ってきました。これで島一周です。今日平和に北大東島を旅することができるのは、平和裏に日本に編入された経緯があっての事。そのことを示す標柱がある場所にやってきました。

国標(沖縄県北大東村)


大東諸島日本領へ画定の第一歩

島の開拓に先立って沖縄県による調査が行われた

玉置半右衛門率いる八丈島の開拓団が北大東島上陸。それに先立つこと18年前の明治18年(1885)。内務省の命を受けた沖縄県令(現知事職)が、大東諸島へ調査団を派遣しました。

琉球王国において大東諸島の存在は、漁民や貿易商らを通じて「うふあがり島」として古くから知られていたようです。

うふ…大きい
あがり…東(の方向)

世界的には、
1630年頃にオランダ商船によって大東諸島が発見され「Amsterdam」と呼ばれた。

1820年にはロシア軍艦が大東諸島に到達。船の名前から「ボロジノアイランド」と名付けられ、欧米を中心とする海図に記載された。

1853年、マシュー・ペリーがボロジノアイランドに接近。船から大砲を打ち反応が無かったため、無人島と推察される旨の記述がある。
【ペリーと大東諸島関連記事】那覇出港。洋上の人と犬になる<フェリーだいとう/沖縄県>

いずれにしろ南北両島とも、公式的な上陸は沖縄県の調査団が行うまで記録が残されていない。断崖絶壁の海岸線が人類全ての上陸を阻んできたことが、結果的に日本にとっては幸いした形です。

しかしながら、例えば他所では小笠原諸島がアメリカやイギリスの実効支配に近いものを受けていたし、大東諸島を大日本帝国の領土として早期に確定させることは国防上急務事項。そこで明治政府は大東諸島に最も近い自治体である沖縄県に、島の調査を行わせました。

このことが記録に残る中で初めての上陸実績となり、国際法上の「先占(せんせん)」の法則に照らし合わせた時に有効な材料となり、諸外国から大東諸島の日本領有が認められました。

 

「先占」の法則

「先占」の実績作りのために派遣された石澤兵吾率いる沖縄県の調査団

明治以降、先占の実績によって日本領に編入された地域に、

・小笠原諸島(おがさわらしょとう)
・大東諸島(だいとうしょとう)
・尖閣諸島(せんかくしょとう)
・竹島(たけしま)
等があります。

尖閣諸島や竹島は、上記の実績に基づいて当時は平和裏に編入されたものの、第二次世界大戦後新たに領土問題が発生しています。

大東諸島は上陸が困難だったことがあり、列強各国が二の足を踏んでいるところで日本が一番に先鞭をつけることができた、と言えます。

小笠原諸島は、米英の艦隊や捕鯨船などの商船にとって太平洋上で薪水等を補給することができる重要な地点であったため、ナサニエル・セイヴァリーを始めとする欧米系移民を島へ送り込むなど、既成事実の構築に余念がありませんでした。
その点では日本は定住者がおらず、小笠原諸島の主権を謳うにあたって有利となる「住民」の存在では後れを取った形でしたが、それより約200年前に先占の実績がありました。

寛文10年(1670)、阿波國・長右衛門の蜜柑船が母島に漂着した事件があり、帰還した長右衛門の話を元に5年後の延宝3年(1675)、幕府が調査団を派遣していたのです。中でもその時に建てた「此島大日本之内也」の石碑。これが日本領有の決定打となりました。

他の例としては、北方領土の択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てたことが、幕末に行われた日露国境画定に大きく作用しています。

大東諸島の上陸や標柱の建立は時代がずいぶん下ってからの出来事ですが、小笠原諸島での一連の調査行動はまだ「先占」や「領有争い」の概念が無かった時代。そんな時代の行動が後世で有利に働いたあたり、日本は領土画定作業に関しては諸外国より上手だったのかもしれません。

 

国標に記されている内容

西面と北面に記されている内容

<西面>東西凡一里半南北凡四里明治十八年八月三十一日建立(とうざいおよそ1りなんぼくおよそ4りめいじ18ねん8がつ31日こんりゅう)
<北面>奉命實地踏査沖縄懸五等石澤兵吾他五名(ほうめいじっちとうさおきなわけん5とういしざわひょうごほか5めい)

明治期の沖縄県の調査によって建てられた沖縄県域を示す国標。その際に測量が行われたため、北大東島の広さを示す数値が記されています。

東西一里半≒6km
南北四里≒16km

実際の東西距離は、
東西…約5km
南北…約3km

当時の測量で出た「南北四里≒16km」は島の海岸線の距離の事?

今だったら測量の技術が進歩して、限りなく実値に近い結果が出ます。けれど当時は誰も上陸したことが無い島で、それができたとして島の中はジャングルだったことでしょう。測量など行えるはずはありません。

大東諸島は現在もフェリーを島に係留できない島。当時の事を想像するに、測量が完了するまで島に留まる…なんて猶予はありません。
海が荒れても風待ち・潮待ちすることができる湾は周囲300kmありません。海が荒れると航行はもちろん、船舶自体にも危険が迫ります。

かと言って沖縄県を通じて国の命を受けて派遣されている以上、無事帰還することが前提。けれど手ぶらで帰ることも許されません。

そんな一発勝負の状況で上陸して国標を立てた事は超ファインプレー。これがなければ、今日大東諸島が日本国領でなかったかもしれません。

 

東面に記されている内容

<東面>沖縄懸管轄北大東島距本廰大凡百三里沖縄懸(おきなわけんかんかつきただいとうじまへだたることほんちょうよりおおよそ13oり おきなわけん)

距本廰大凡百三里≒412km

沖縄本島から大東諸島は、距離が約360kmあると言われています。標木のように50kmほど距離に差が出るのは船が本廰(ほんちょう)、すなわちそれが置かれている那覇から出港するため。
那覇港は沖縄本島の西側にあるので、東方にある大東諸島へは本島南部の喜屋武岬(きゃんみさき、糸満市)を回り込む必要があり、その分の距離が加算されます。

現在のフェリーだいとうと同様のルート

今回のフェリーだいとう乗船では行動ログを取って距離を実測しましたが、やはり約400kmでした。100年以上前の調査で、ほぼ正確な数値が出ていたことになります。

南面に記されている内容

<南面>再々々建平成二十八年三月三十一日
こちらの国標は三代目。

明治18年(1885)…木製
昭和12年(1937)…コンクリート製
平成28年(2016)…木製

元々は調査団の上陸地点である西港付近に設置されていたようですが、近年の西港公園の整備と併せて現在地に移して三代目に変わりました。

ここで疑問。

再建…2本目
再々建…3本目
再々々建…4本目

自分が日本語の解釈を間違えているのでしょうか?

測量は後年でも可能です。この時の任務は、まずは日本の領有を示すことが至上命題。簡単なことではないのでしょうが、任務は確実に遂行されたと言えます。

 

日本領を示す標木の前で

北大東島三代目国標とドギー

旅犬ドギーとこの場所に立つことができたのは、この島が平和裏に日本に編入され開拓されたおかげです。

 

国標

続き

 

フェリーだいとう編

 

南大東島編

 

北大東島編

 

旅の期間

平成30年5月21日-5月24日


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