toggle
2020-04-14

島の盛者必衰を見て来た巻き上げ機<西港/沖縄県北大東村>


廃墟と化している西港の旧燐鉱石貯蔵庫群。道路を挟んだ反対側でも、その遺構を見ることができます。

錆びた巻き上げ機と、背後はリン鉱石の乾燥を行っていたドライヤー室


高台にあるかつての荷揚げ用巻き上げ機

真っ青な海に向かって異質のさび色物体

西港の断崖絶壁岸壁から荷揚げスロープを挟んだ向かい。組まれた石垣の上にある錆びた機械が見えます。

潮風浴びて錆びっさび

近寄ってみると、その機械は「巻き上げ機(ウインチ)」でした。

発動機、もしくは発電機で起こした力でスプールを回転。ワイヤーを巻くことでそれに引っ掛けた荷物を引っ張る機械。釣りに用いる両軸リールのような構造です。

 

この穴を通じて延びるワイヤーで、荷物を引っ張った

沖に碇泊する船→艀(はしけ)→荷揚げスロープ
の順で運ばれた荷物がトロッコ、もしくは車両が入ることができる高さまで、こちらの機械を用いて引っ張り上げられるわけです。荷物の大きさや重さによっては、荷物を載せた艀舟(キャスター等が付いていた?)ごと引っ張られたかもしれません。

こちらがいつまで使用されたものかは記録をたどるのが困難ですが、少なくとも鉱山が操業を停止してからも使用されていたようです(※後述)。

 

散らばっているウインチ部品

ワイヤーが巻かれたまま錆びて固着、部品が欠落している

波風吹き付けるこの場所で放置されると、この状態になるまでそれほど長い期間はかからなかったように思います。

転がっているパーツはエンジン部品

錆びたウインチの周辺を見渡してみると、朽ちて欠落したであろうウインチのパーツがゴロゴロ。

こちらはエンジン。ピストンの形状を辛うじて確認することができます。すなわちこちらのウインチは、発電機ではなく「発動機」。石油を燃焼させて生む力でワイヤーを引っ張る構造です。

四つの丸いものが見えますが、こちらはピストンでしょうか。
オートバイ等のスペックでお馴染みの「単気筒(シリンダー1つ)」「四気筒(シリンダー4つ)」。こちらはピストン燃焼室が4つ並んであるように見えるので「直列四気筒(ちょくれつよんきとう)」。今日大衆車と呼ばれるジャンルに属する乗用車のエンジン構造と同じです。

エンジンを構成するパーツの一つ「フライホイール」

自動車であれば、シリンダー(気筒)内で爆発したエネルギーをこの円盤に伝えることで、安定化させたパワーがシャフトを通じて駆動するタイヤに伝わり、走行することが可能になります。
ウインチであればタイヤや車輪を駆動させることはありませんが、その代わりにフライホイールの「円」から両軸のウインチ「円」へのパワー伝達。シャフトを介さない分、自動車よりパワーロスが少なそうです。

コンクリートに記される建設年度の刻印

「1956.3.21建設」とあります。
元号に直すと昭和31年。同年同日、福岡・広島・仙台の各都市で、NHKテレビジョン放送が開始されています。

北大東島におけるテレビジョン放送は、

昭和59年(1984)…NHK衛星放送開始
平成10年(1998)…地上波アナログ放送開始 ※但し、東京の放送局
テレビジョン放送の開始時期も去ることながら、地デジ化が行われるまで島内で見ることができる番組内容は首都圏のものでした。このことも大東諸島が「沖縄離れ」している点の一つ。ただし、どちらの島にも八丈島にルーツを持つ方々が多く居住されている事と、そもそも初めてのテレビ放送がそれなので、島民さんたちにとって東京の放送局はあまり違和感が無かったかもしれません。

完全に錆びているものの、今のところ原型を留めている旧ウインチ

年号の刻印を見ると、燐鉱石鉱山が閉山後(昭和25年/1950年頃)もこの場所での荷役は変わらず行われていて、ウインチも新造されたことがわかります。

それは「最後のウインチ」でもありました。鉱山閉山後もこのウインチは稼働して、廃れ行く施設群を誰よりも間近で見て来たと言えます。

 

絶海の孤島にある煉瓦建造物

島の空は広い

高い建物が無かったり、電線が張っていないからでしょうか。人の営みが街と比べて少ないから、空気が澄んでいるとも言えます。
一つ言えることは「爽快」。これは間違いありません。ウインチ背後にある廃墟区画へ足を伸ばします。

コンクリートの破片に煉瓦建造物が崩れた跡

こちらの区画は先の燐鉱石貯蔵庫跡と異なり、完全に崩壊しています。

 

リン鉱石の乾燥を行うドライヤー室

この場所にあったのは「乾燥室(ドライヤー)」

採掘した燐鉱石をそのままでは出荷することができません。できる限り不純物を取り除いて、乾燥させたものが商品になります。ここでは火を焚いて熱を起こし、鉱石の乾燥が行われていました。

イギリス積みで組まれた煉瓦建造物

この場所は「熱源」があるが故、火を焚く部分の資材には耐火煉瓦が用いられたようです。今日DIYで製作する「ピザ窯」に用いられる、通常のものより高熱に強い加工が施されている煉瓦。

北大東島のそれはどこで製造されたものでしょうか。最も近い陸地は沖縄本島ですが、方角で言えば真北が宮崎県。実際に玉置半右衛門が上陸する際の航海では油津港(あぶらつこう、現宮崎県日南市)に寄港しているので、案外その辺りから取り寄せられている煉瓦かもしれません(※想像です)。島内にはもちろん煉瓦工場は存在しないので、レンガは島外から運ばれ組まれたもの。煉瓦建造物と言えば広島県産業奨励館(現:原爆ドーム)がそれにあたりますが、その資材に用いられた煉瓦の多くは香川県産。県西部の観音寺市に「讃岐煉瓦(さぬきれんが)」という製造メーカーがあり、広義的な意味では瀬戸内海の対岸へもたらされたことが記録に残されています。
※讃岐煉瓦株式会社さんは社名をそのままに、現在は温泉入浴施設や温泉入り放題の合宿が人気の自動車学校等を経営されています

長細い筒状の建造物は、煙突でしょうか

こうして眺めていると、長崎原爆の爆風で吹き飛んだ浦上天主堂の屋根のようです。
台風が大東諸島付近を通過する時はとんでもない強風が吹くようなので、地面への横たわる様から「吹き飛んだ」という点は、こちらも同じかもしれません。

 

案内板によるこの場所の説明

かつて出稼ぎ労働者で賑わったことが紹介されています

先の燐鉱石貯蔵庫跡にあった案内板には、この場所でリン鉱石を乾かすドライヤーのエピソードが記されています。

リン鉱石は肥料のほか、火薬の素となる成分やアルミナ鉄の含有量が豊富だった、と記されています。すなわち爆弾や戦闘機の機体原料としては最適。道理で採掘が奨励されるわけです。

戦前の北大東島は、日本領でありながら実際は社有島。鉱山の運営会社が島の運営を行っていました。そこは南大東島と同様。給料は会社発行の商品券で支給されるなど「植民地」のような体制が取られていました。
しかしながら、生活レベルは沖縄県他地域と比べると高水準で、島内には映画館などの娯楽施設があったり、希望する商品がある場合は予め会社に申請すると、当時の沖縄県他地域では手に入らない代物を取り寄せる事もできたそうです。それが自立した社会構造によってもたらされていた点が特筆されます。

それが悲しいかな鉱山による賑わいだったので、戦後資源の枯渇や世の中のニーズの変化によって終焉を迎えたわけですが、現在は国の離島振興政策によって村自体の所得水準が高いのは変わらないそうです。

 

燐鉱石貯蔵庫跡

 

続き

 

フェリーだいとう編

 

南大東島編

 

北大東島編

 

旅の期間

平成30年5月21日-5月24日


関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です