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2020-03-31

大東諸島始まりの地・西港<南大東島/沖縄県南大東村>


旅犬ドギーと訪ねる大東諸島の旅。無事に南大東島に上陸することができました。ここで改めて大東諸島の位置をおさらいしたいと思います。

大東諸島が琉球弧に乗らない絶海の孤島であることがわかる


絶海の孤島の位置

北大東島
南大東島
沖大東島

この三島から成る大東諸島。
このうち「沖大東島(おきだいとうじま)」は現在は無人島。南大東島から約150km南、平坦な島なので陸地からこの島が見える場所はありません。位置関係では南大東島の方が近いものの、開拓の経緯から北大東島に所属します。日本の化学メーカーである「ラサ工業」はこの沖大東島(別名ラサ島)における鉱山事業が起源であり、発祥の地。

昭和生まれの大阪人であれば、阪神電車の淀川駅近くにあった「ラサスポーツセンター」が記憶にありませんか。ラサ工業の工場跡地に建てられた、同社が一時期経営していた不動産事業部門の施設で、当時世界最大と謳うスケート場がありました。自分も記憶の片隅に残っています。
昭和59年(1984)に閉鎖されて、現在跡地には団地とイオン高見店になっています。

同社サイトに、その沿革が詳しく掲載されています。
「ラサ工業ってどんな会社?」 http://www.rasa.co.jp/what_is_rasa/what_is_rasa.html

 

一般的には夏に台風情報で耳にするのが「南大東島」。島内にある気象観測所から送られる気象データは、台風の進路予測において重要な役割を担っています。

改めて地図を引き延ばして位置関係を眺めてみると、奄美や沖縄などの琉球弧(南西諸島)から完全に離れた絶海の孤島であることがわかります。
比較すると、大東諸島からはフィリピンと東京が同じくらいの距離。大阪-名古屋の距離なんて近いものです。

 

フェリーだいとうの軌跡

大東諸島は沖縄本島から約400km離れていると言われますが、行動ログを取ってみると、ほぼその通り。
フェリーだいとうは15ノット(時速約28km)程度で航行するので、そちらもバッチリ計算が合います。

大東諸島の存在は、

「うふあがり島」
として、琉球王国では古くから知られていたそうです。

大…うふ
東…あがり

世界地図の上ではロシアの帆船・ボロジノ号が発見したことに因んで、

「ボロジノアイランド」
と世界地図に記されていた時代もあります。

今なら個人でもGPSを用いて正確な距離を測ることができますが、昔々はどのようにして島の位置や距離を把握していたのでしょうね。羅針盤(らしんばん)や北極星の位置などで方角を測っていたのでしょうが、現代とあまり誤差が無いのは驚きです。

 

大東諸島始まりの地・西港

現在でも島内最大の港湾機能を有する港

南大東島に上陸。予約していたレンタカーを借りて島内散策!
と意気込んでいたら、先に午後に北大東島に向けて出港するフェリーの切符を購入して下さい、と連絡。切符を発券するために大東海運の事務所がある「西港」へやってきました。

かつて開拓者たちが初めて上陸に成功したのが、こちら西港。お隣・北大東島は南の次に開拓が始まった場所なので、ここが大東諸島始まりの場所と言っても過言ではありません。
通常であればフェリーだいとうが発着する港であり、南大東島最大・最重要の港が西港。役場の出張所も置かれています。

西港に残されている石積みの古い建造物

こちらはかつてのボイラー室。

ここで発電された電気を用いて荷役作業が行われました

島外から運ばれる食糧、生活用品、建築資材。島内で生産された砂糖の出荷。西港では南大東島の産業とライフラインに関わる全ての事が行われていました。その原動力となった発電所は、島の開拓と発展に大きく寄与した施設の一つと言えます。

屋根は吹き飛んだ?撤去された?

現在はその役目を終え廃墟の様相。建物の中から真っ青な海と空を見ることが出来ます。

ただでさえ雨風厳しい南大東島の、強風荒波吹き曝しの石積み施設。南大東島の開拓史を忠実に伝える証人ですが、何らかの補強を行わないと数年のうちに朽ちてしまいそうです。

大東諸島の開拓者

西港にある開拓百周年記念日

南大東島始まりの地・西港にあるこちらの記念碑。

明治33年(1900)は19世紀最後の年

伊豆諸島の八丈島から「玉置半右衛門(たまおきはんえもん)」を中心とする開拓団が、南大東島への上陸に成功。有人島としての歴史が始まりました。

玉置半右衛門(たまおきはんえもん/1838-1910)

八丈島出身の玉置半右衛門が大東諸島へやってきたのは明治33年(1900)。
それ以前には伊豆諸島南部の鳥島でアホウドリの羽毛採取を行い、巨万の富を得ていた。

明治21年から明治35年(1888-1902)の間に撲殺されたアホウドリは、500万羽にも上る。
この乱獲によってアホウドリは姿を消し、一時は絶滅したと思われるほど個体数が減少。明治35年(1902)の鳥島火山噴火によって、アホウドリの捕獲に関わっていた従業員全員が死亡するまで続けられた。

 

柳の下の二匹目のドジョウを狙って大東島へ

元々はフィリピン近海に出漁した際に大東諸島の存在を知り漁業基地にしようと考えていたようですが、乱獲に起因するアホウドリの減少により鳥島での事業継続に陰りが見え始めていた頃。玉置半右衛門が次に目を付けたのが「大東諸島の開拓」だったようです。
国から開拓の許可を得て、未だかつて人類の上陸を許していなかった絶海の孤島の開拓に燃えた。

八丈島から南大東島への航路

鳥島を開拓した経験がある者、新たに移住を希望する八丈島の人たちを連れて出港。鳥島や油津(あぶらつ、現宮崎県日南市)、那覇を経由して明治33年(1900)1月に南大東島に到着、上陸に成功した。

南大東島に上陸した玉置は島内に繁茂していた木々を焼き払うなどして圃場を整備。サトウキビの苗を植えて製糖工場を建設。玉置商会を設立して南大東島における製糖事業を軌道に乗せた。

島にはサトウキビ運搬用の列車が敷設され、非公式的に旅客輸送も行っていた。また、玉置商会によって島に学校や病院、商店などが作られた。

しかしながらそれらは全て玉置商会の経営。農民が収穫したサトウキビを売る先は玉置商会以外に選択肢は無く、支払いは玉置商会が独自に発行した「大東島紙幣」で行われた。
これは今で言うところの現金引換券で、島外に出る際は日本円に交換できる事が約束されていたようです。支給した給料を商品と引き換えることで100%回収することができる事はもちろん、敢えてその手間を発生させることによって無断で島外に出ることができなくなる。これは労働者たちの逃亡を防ぐ目的があった。
また、大東諸島へは沖縄からの定期船が年に数回運航されていたが、そのダイヤは島民に知らされていなかった。この状態は玉置半右衛門の死後に他社へ経営譲渡されてからも、戦後まで維持されることになる。

島の社会は三層構造で、
①玉置商会の社員=玉置半右衛門の側近
②会社から土地を与えられた農業移民=主に八丈島出身者
③②が雇った出稼ぎ労働者=主に沖縄県出身者

新たな土地に希望を膨らませて島へやってきた島民たちだったが、実際には植民地的な搾取に喘いでいたようです。

こちらバラ印の「大日本明治製糖」のルーツの一つが、南大東島発祥の玉置商会です。
玉置商会→東洋精糖→大日本製糖→大日本明治製糖

上陸記念碑

西港内、別の場所に立っている三本のコンクリート柱。

内容はいずれも玉置半右衛門関係のもの

右…南大東島への上陸を成功させた玉置半右衛門を顕彰する碑
中…その第一回航海を成功させた船長や入植者たちを顕彰する碑
左…明治35年(1902)鳥島での火山噴火により亡くなった人々を祈念する碑

第二次世界大戦後に米軍施政下に移行。会社統治による植民地的な体制は解かれたわけですが、この記念碑を見る限り 今でも旧玉置商会の流れが残っていると言えそうです。

路傍に仏を祀る様は、沖縄ではあまり見かけない風習

島の文化ベースが八丈島由来であることから、沖縄県内では見られないものがいくつか存在します。

こちらのお地蔵さま(地蔵菩薩)もその一つ。絶海の孤島はあらゆる面で特殊な歴史を有しています。

 

フロンティアパークの思い出

フロンティアパークと呼ばれる公園

西港に隣接する公園。

公園横を真っ直ぐ伸びる道は鉄道廃線跡

かつて南大東島には「サトウキビ運搬鉄道(通称シュガートレイン)」が運行されていました。

沖縄県は第二次世界大戦の戦火で県営鉄道が破壊され、平成15年(2003)の沖縄都市モノレール(ゆいレール)開業まで半世紀以上鉄道が存在しませんでした。

のは、若干史実と異なります。南大東島でも多少の戦災があったものの、戦後もシュガートレインが活躍していました。
あくまでサトウキビやそれに関わる資材等を運搬する目的で運転されていた鉄道ですが、非公式的には旅客営業が行われていた様子。いわゆる「日本最南端の鉄道」が、この絶海の孤島に存在したわけです。

シュガートレインの運行ルートは、

製糖工場(在所)-西港
を本線格として、円形の島内を環状するルート、いくつかの支線で構成されていました。

そんなシュガートレインは、昭和58年(1983)にトラック輸送への切り替えのため廃線になりました。一部では線路跡であったり、村役場近くにはその機関車と客車の展示があるので、のちほど探検したいと思います。

南大東島に上陸した旅犬ドギー

久しぶりの登場です。
島に上陸してから切符を購入しに走ったり、出番がありませんでした。公園に来たここから、彼の島旅が始まります。

ドギーにとってごはんは前日午後、出港前に食べて以来。航海中こそ水を飲むだけでごはんを食べることはありませんでしたが、島に上陸してからはがつがつごはんを食べます。頼もしい。

 

私の記憶が確かならば…

ここは島内指定のキャンプ場。17年前、同じようにフェリーだいとう(先代)で南大東島に渡り、こちらでキャンプ生活をしました。

その時は今回のような一航海で両島を訪ねる計画ではなく、次の航海でフェリーが来た時に那覇に戻る予定にしていました。けれど滞在中天候は良かったものの、遠くで発生した台風の影響で海にうねりが生じ、一週間後の次の航海が中止。北大東島に行くこともなく、二週間近く南大東島、というかこの場所に居ました。

正確には飛行機は飛んでいたので、北大東島へ行ったり那覇へ戻ることはいつでもできたのですが、運賃が結構するのでそれは最終手段。二週間くらいは帰れないこともあるだろうなと計画していたので、許容範囲で収まりました。

当時の事を思い出してみると、最初は本(※当時の主な情報収集手段)に書いてあるようなスポットに行くのですが、それは一通り訪ねると行かなくなります。
あまりにもやることが無さ過ぎて、次に考えたのが短期アルバイト。結果的に従事することはなかったと記憶していますが、アルバイトじゃないにしても何か島の方々の役に立てることはないものか、集落へのおさんぽが毎日の日課になりました。

そうするうちに面倒見の良い島の方と仲良くなって、当時未開だった鍾乳洞へ連れて行ってもらったり、帰る前の夜に島にあるフィリピンパブ(※最後の夜にこんなのがあったんだと気付く)に招待してもらったり。今となってはその方の顔も名前(※そもそも名前を知らない方)を思い出すことができないのですが、やっぱり旅は人との出会いが一番記憶に残るんだろうなあって思います。その節は本当にお世話になりました。

前回南大東島に滞在した期間は長かったのですが、デジカメやカメラ機能付き携帯を所持していなかった時代の事なので、記録が無いのが今となってはとても残念。この時の経験を生かして今回カメラを新調しました。

天然記念物「ダイトウオオコウモリ」

キャンプ場トイレのコウモリは健在。これはよく覚えてます。このコウモリがこわくて、暗くなってからのトイレを我慢していた記憶があります。
当時と比べるとだいぶ草臥れたような気がしますが、落っこちてなくて良かった。

新しく造成された?ボロジノパーク

フロンティアパークの道(廃線跡)を挟んで海側、西港横にトイレと東屋が整備された区画があります。これは当時なかったように記憶していますが、記憶違いかもしれません。
今キャンプするとしたらここなのでしょうか。海が荒れた時のここでのキャンプは恐怖が伴いそうです。

今回この時点で島内の散策はまだですが、前回の訪問と比べてちょっとずつあれこれ整備されているようでした。

 

南大東島・西港

 

続き

 

フェリーだいとう編

 

南大東島編

 

北大東島編

 

旅の期間

平成30年5月21日-5月24日


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