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2020-05-23

世界最大規模の山岳遭難が発生した地<雪中行軍遭難記念像/青森県青森市>


「八甲田山(はっこうださん)」と聞いて思い浮かぶのは、山の美しさより小説や映画でしょうか。それらの原案になったノンフィクションの山岳遭難事故が発生した現場を、ドギーと訪ねます。

大勢の方々が亡くなった山岳遭難の地


八甲田山雪中行軍訓練

世界登山史稀に見る大規模遭難事件

結果的に隊員210人のうち199名が亡くなるという、世界最大規模の山岳遭難事故となった「八甲田山雪中行軍(はっこうださんせっちゅうこうぐん/明治35年1月)」

その背景には、明治27年(1894)に勃発した日清戦争において寒冷地で苦戦した事や、朝鮮半島の覇権を巡って近い将来ロシアと一戦交えることが確実視されていたため、陸軍内では寒さを克服することが急務とされていました。

実際、雪中行軍のほぼ2年後、明治37年(1904)2月8日に日露戦争が勃発しています(-1905年9月5日まで)。

 

同時期に八甲田山系で雪中行軍訓練を行った陸軍部隊は二部隊あり、

「青森歩兵第5連隊」
主な目的:ロシアの侵攻によって青森の鉄道が不通になった場合、雪上を人力ソリで物資運搬が可能かどうかの検証
部隊としての経験:5日前に9km予行演習
装備:軽装備に物資運搬訓練の重荷
現地案内人:無し(拒否)
計画日程:1月23日から1泊2日
計画距離:片道約20km
人数:210名

結果:199名死亡

「弘前歩兵第31連隊」
主な目的:雪中における服装や行軍演習の集大成
部隊としての経験:3年
装備:入念な準備と必要最低限の軽量化
現地案内人:あり
計画日程:1月20日から11泊12日
計画距離:全長約224km
人数:37名+新聞記者1名+現地案内人

結果:全員生還

それぞれ大きく明暗が分かれる結果となりました。

 

雪中行軍遭難記念像

雪中行軍銅像へ続く道

行軍遭難の銅像がある場所へは、自動車を停めて遊歩道を約200mほど歩きます。

この時季節は初夏だったのですが、山に霧がかかって場所柄もあってか少し肌寒く感じました。

雪中行軍遭難記念像(背後)

数分歩いて記念像に到着。公式的には「記念」になっていますが、ここは「祈念」の方が相応しいと思うのですが、いかがでしょうか。

銅像が立てられている場所は八甲田山北麓の丘の上。晴天時は壮大な八甲田の山なみを一望することができる場所、のはずですが今回の訪問でその眺望は叶わずでした。

後藤房之助(ごとうふさのすけ/1879-1924)伍長

隊員210名・死亡199名(うち6名は救出後に死亡)、生還することができた11名の1人
銅像のモデルは、1月23日に入山して五日目となる1月27日の10時頃、救助隊によって発見された時の様子を再現したもの。仮死状態で佇んでいたところを救助、救命措置が施され蘇生したと伝わります。
後藤伍長は命は助かったものの凍傷にかかっており、その後両手両足の切断を余儀なくされました。

寄文は後年第18代内閣総理大臣を務めた寺内正毅によるもの

この救助劇は雪中行軍遭難事件を象徴する場面として明治39年(1906)7月、陸軍大臣を務めていた「寺内正毅(てらうちまさたけ)/1852-1919」によって、この場所に銅像が建てられました。
※発見地点ではない

訳文は駐車場近くに掲げられている

後年、第二次世界大戦が勃発して金属回収例が発令。全国各地にあった銅像もその例外ではありませんでしたが、こちらの銅像は供出免れています。

 

国内最低気温を記録した日

雪中行軍記念碑とドギー。初夏なのに霧が出て肌寒い気候

遭難事故が発生した「明治35年(1902)1月23日」から二日後の1月25日。北海道の上川測候所(かみかわそっこうじょ)では、

「-41.0℃」

という気温が記録されています。その翌日には同じ北海道の帯広市で「-38.2℃」を記録。
これらは100年以上過ぎた現在においても、国内で観測された最低気温第1位・第2位にランクインしています。

この時は強烈なシベリア寒気団が襲来して大寒波になったようですが、そんな気候の中で雪中行軍が行われました。もちろん、事前に予想天気図を眺めてから決行の可否判断を行うわけですが、「強烈な寒波だからこそ行軍にふさわしい」と決断された説があります。

雪中行軍は陸軍の行動によるもので、軍事機密であったり生存者にも見聞きしたことを他言してはならない「緘口令(かんこうれい)」が敷かれたため、明らかになっていない点が多く残されています。その少ない証言の中から、

「天は我らを見捨てたらしい」

ドラマや映画などで絶望時に発せられる有名な文言は、この時出た言葉との説があります。これは入山から3日目、上層部の協議によって

「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森または田代へ進行するように」

それまで緊張感を保ちながら辛うじて命を繋ぎとめていた隊員たちはパニックに陥り、谷へ投死、同士討ちなど狂死が起こり、凍死以外の死者が増え被害が拡大しました。

そんな絶望が生まれた場所が、現在銅像が立っているこの場所だったと言われています。
※諸説あります

 

雪中行軍遭難記念像

 

旅の期間

令和元年7月


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