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2019-08-12

鳥海山は誰のもの?旅犬版奥の細道<鳥海山/山形県遊佐町・秋田県にかほ市象潟>


その山容から「出羽富士」と呼ばれ、東北第二の標高を誇る鳥海山は地域を代表する景観として、またこの土地で暮らす人々の信仰の拠り所として親しまれてきました。鳥海ブルーラインによって5合目まで自家用車で行くことができるので、旅犬ドギーを連れて上がってみます。

秋田県側から見る鳥海山

 

鳥海ブルーライン

標高ゼロから1,100mへ

鳥海有料道路として、昭和47年(1972)に開通。平成13年(2001)に無料開放されました。

現在は山形・秋田両県に跨る県道で、愛称は「鳥海ブルーライン」
鳥海山は海から近く山塊も大きいので、かつて登山では「標高ゼロから二千メートル」を克服しなければ頂上に立つことができませんでしたが、道路開通後は自家用車で5合目(約1,150m)の鉾立登山口まで行くことができるようになりました。

道路は片側一車線確保の二車線で走り易く、晴れた日の眺望はとても良い。

天気が良い時には男鹿半島まで見えると言う

北側、秋田県方向を眺めたところ。晴れた日には秋田市より先の男鹿半島(おがはんとう)まで見渡すことができる。

左端の少し突き出た辺りが、松尾芭蕉が奥の細道で訪れた象潟(きさかた)。田んぼに点在する陸島の様子が、よくわかります。

山形県唯一の離島

西側の山形・秋田県境方向に目をやると島が見えますが、こちらは山形県唯一の離島「飛島」

「とびしま」と読みます。
島名の由来は、鳥海山が噴火した際に吹き飛んだ塊が日本海に落ちて島になった説があります。

 

今回は鳥海山の姿を眺めるだけ

五合目・鉾立登山口にて

今回は時間の都合で登山の時間が取れませんでしたが、次また来る機会を作って、その時はここからお山に登りたいです。
ドギーとしても2,000m超えは未経験なので、彼にとって未知の領域へナビゲート(飼い主事実上の犬シェルパ)したいです。

 

鳥海山は誰のもの?不思議な県境線と県境争い

秋田県側から。山頂は山形県のもの

「鳥海山は山形・秋田に跨るお山」と紹介されますが、

鳥海山付近の複雑怪奇な県境線

厳密に言うと鳥海山は山形県のもの。周辺の地図を目にしてみると、山頂付近が人為的に曲げられた形になっていることがわかります。

山形・秋田、両者共にとっても大切なお山。どちらか一方のものというのは非常に不公平な印象を受けますが、これは江戸時代に勃発した嶺境紛争によるもの。山頂にある「大物忌神社(おおものいみじんじゃ)」の社殿建て替えに端を発する。

 

鳥海山は元々修験道の山なので、発祥の地・熊野由来の順峯(じゅんぶ)・逆峯(ぎゃくぶ)が存在する。熊野の大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)だと、南側の本宮大社から吉野へ向かう事を順峯、北側の吉野から本宮大社へ向かう事が逆峯となる。

鳥海山では、
庄内(しょうない)側から頂上を目指すことを順峯
矢島(やしま)側から頂上を目指すことを逆峯

と定められ、それぞれの方式での登拝を尊重し合うことが確認された。

が、元禄14年(1701)に社殿を建て替える話が浮上すると、矢島側の信徒たちが逆峯式の社殿とするよう陳情。これまで山と神社を取り仕切ってきた庄内側の信徒たちがこれに反発。これが両藩の境界争いに発展し、幕府の裁定を仰ぐことになりました。

山頂が山形に編入されていることがわかる

結果的に現在の県境で見られるように山形側(庄内藩)有利な裁定が下されましたが、これは秋田側(矢島藩)にとって相手が悪過ぎました。

庄内藩は、関ヶ原の戦い以前から徳川譜代であった酒井氏が治める14万石。江戸時代の徳川幕府においては大老四家の一つに数えられる、徳川幕府お墨付きの強大藩。
矢島藩は、お家騒動によって讃岐國から転封させられた外様である生駒氏が、堪忍料として与えられた僅か1万石の小藩。

順・逆両者の言い分や前例など一応の調査は行われたものの、矢島藩にとって庄内方は相手が悪過ぎました。結果的にこの時の裁定が明治以降も引き継がれる形で現在の歪な形状の県境線になっています。

 

鳥海山鉾立展望台

 

旅の期間

令和元年7月


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