toggle
2020-04-30

日本最北端の駅とコンクリートアーチが美しいドーム型防波堤<稚内駅周辺/北海道稚内市>


旅犬ドギーとは日本全国全ての場所に行きたいと思っていますが、様々な制約があってそれは叶いません。北海道を旅する中で厳選して訪れたこの場所は、旅人にとって憧れの場所です。

日本最北端の駅に到達した旅犬ドギー


旅人みなここへ

旅人が目指す日本最北端の都市「稚内(わっかない)」

訪れるための手段は鉄道、高速バス、自家用車、オートバイ、レンタカー、自転車、徒歩と、旅人によって様々です。

鉄道や高速バスで訪れる場合、ターミナルとなるのがこちらの「稚内駅」。平成23年(2011)4月に現駅舎になり、駅前もずいぶん変わりました。
現在は延びてくる「宗谷本線(そうやほんせん/旭川-稚内。259.4km)」のレールと直角になる形で駅舎が立っていますが、それまではレールと平行に駅舎が立っていたような。

 

先代の稚内駅駅舎

昔々訪れた時の稚内駅駅舎

過去の写真を引っ張り出して旧駅舎を確認。そうです、タイルのような壁に「日本最北端」「稚内驛」と掲げられていました。駅舎の立っている方角も今とは違っていました。

稚内駅は「日本で最も遠い」と言えるような場所なのに、今回もまた訪れてしまいました。そんな場所ありますよね。何をするわけではないのだけれど、自分にとって稚内駅は何度来ても良いと思っている場所の一つです。

吉田類の酒場放浪記【TBSオンデマンド】 #334 稚内「郷土料理網元」【動画配信】

現稚内駅駅舎

最北端の線路には続きがある

駅舎から延びるレールがタイルに埋め込まれ、以前はここから海に向かってもう少し鉄路が続いていたことを知らせています(※後述)。旧駅舎はこのレールの右側に駅舎やプラットホームがありました。

駅こそ新しくなりましたが札幌と稚内を結ぶ公共交通機関の便数は、高速バスの方が多い。宗谷本線自体「JR北海道が単独維持困難な路線」の一つに挙げられているので、この先災害などで鉄道が被害を受けると根室本線の一部区間「東鹿越-新得」のように復旧工事が行われずそのまま廃止の議論に…

さすがにここを廃止にしてしまうと国土防衛にも関わってくると思うので、旅人としても日本の国を想う愛国心的にもそうであっては欲しくないです。

 

全国と繋がっている鉄道のレール

日本国の鉄道、北はここまで

こちらの二本のレールは沖縄県を除く全国と繋がっています。真逆に位置する最南端「指宿枕崎線西大山駅(いぶすきまくらざきせん・にしおおやまえき)」へは、ここから3,000km以上。日本は南北に長いです。
※距離の算出方法はルートによって異なります

東…東根室(根室本線・北海道根室市)
西…たびら平戸口(松浦鉄道・長崎県平戸市)
南…西大山(指宿枕崎線・鹿児島県指宿市)
北…稚内駅(宗谷本線・北海道稚内市)
※沖縄県の鉄道(モノレール)を除く

いずれも旅人なら訪れてみたい個性的な駅ですが、西の「たびら平戸口」駅以外は廃止が取り沙汰されている路線。それだって国鉄松浦線から転換された中小鉄道事業者。将来的には「端っこ」が別の駅に変わることがあるかもしれません。

【関連記事】開聞岳下山後、周辺のみどころ散策<開聞岳山麓周辺/鹿児島県指宿市山川・開聞>

周辺路線図と稚内駅発着時刻表

旭川-稚内の259.4kmが宗谷本線

これだけ見ると一駅ごとに運賃がどんどん上がって行くように感じますが、そこは北海道。駅間距離が本州とは違います。

稚内-幌延(ほろのべ)…60.0km
幌延-音威子府(おといねっぷ)…70.1km
音威子府-名寄(なよろ)…53.1km
名寄-旭川…76.2km

宗谷本線の路線距離を他路線に当てはめてみると、九州の東側を走る日豊本線(にっぽうほんせん/462.6km)のうち、小倉-延岡間の距離256.2kmに相当します。

こちらの路線図・運賃表では、音威子府から先は主要駅のみ表示されています。

一日で道内の他都市へ行けるのかどうか

道都である札幌へ行くことを考えると、特急だと3便(うち、2便は旭川乗換)。各駅停車だと午前の2便に乗車すると、途中で何度か乗り継ぐことでその日のうちに札幌まで行くことができます。

青春18きっぷの時期であれば、朝一の便に乗車してより遠い場所へ行くか、列車を下りて駅周辺を見て回るのもより良い旅になります。なんせ途中下車すると次の列車は何時間も来ないので、時計を見ずに楽しむことができます。
下りるとえらいことになる場合がありますが(何もすることがなくて時間を持て余し過ぎる)、音威子府駅の駅そば「常盤軒そば」はお勧めグルメです。

札幌までは特急であれば最速で5時間台。各駅停車だと8時間台。乗り継ぎの回数などで所要時間が大きく変わります。
※時刻表や所要時間は取材当時のものです

 

稚内駅

 

旧駅舎時代の風景

発車を待つ旧型車両の特急サロベツ号

10年くらい前の年末の風景。時間の記録を見ると13時台なので、現在のサロベツ4号に相当する特急列車です。
今はこれらの車両は定期運転から退いているので、旧駅の風景と併せて貴重なショットになりました。

 

終点から更に続いていく線路

駅舎内の床に注目

プラットホーム横の線路は車止めが設置され、そこから先は列車が行くことができません。けれどレールには続きがあり、それは駅舎内を通り抜けて外へ続いています。

敷かれたブロックの形状が更に線路が延びていたことを伝えている

一番最初にドギーがナビゲートした「日本最北端の線路」のモニュメントを過ぎると、さすがに線路は無くなりブロックになりますが、それはレールを模したものになって先へ続いて行きます。

同様のモニュメントは、ドギーと飼主が暮らす香川県高松市の高松駅でも見ることができます。こちらはかつて「宇高連絡船(うこうれんらくせん)」が運航されていた名残。現在は高松駅が「サンポート」として整備され、駅前には近代的なビルが立ち並んでいますが、その1Fにはレールがあったことを伝える床になっています。

と言うことは、稚内にも鉄道連絡船があったということになりますが…

最北の街の更に北へ。稚泊連絡船の名残

北防波堤ドーム(北海道稚内市)

戦前、この場所には「稚泊連絡船(ちはくれんらくせん)」と呼ばれる定期航路が存在しました。

稚…
泊…大(現コルサコフ)

連絡船就航当時、レールは稚内駅からこの場所「稚内桟橋駅」まで延びていて、連絡船を乗り継いで樺太へ向かう人々が利用していました。

先ほどのレールを模したブロックがその軌道跡。さすがにここまでは再現されていませんが、こちらの大掛かりな防波堤ドームは北海道より更に北の大地へ向かう乗客を、強く吹き付ける雪や波風から護っていたわけです。

日露戦争後の講和条約である「ポーツマス条約」以降日本領に編入された南樺太へは、多くの邦人がこの場所から宗谷海峡を越えて移り住み、北の大地の更に北の土地の開拓を行いました。特に製紙工業の発展は著しく、戦前家庭で使われている紙の多くが樺太で生産されたものと言えるほどのシェアを誇ったそうです。
昭和12年(1937)の暮れに愛人と駆け落ち、樺太の日露国境を越えてソ連に亡命した女優の「岡田嘉子(おかだよしこ/1902年-1992年)」も、ここから樺太へ渡りました。

岡田嘉子 | NHK人物録 | NHKアーカイブス→https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010192_00000

そのような人々の移動を担っていたのが宗谷本線。変わった特徴として、日本の果て(=過疎地)を目指す鉄道ながら貴賓・要人らが乗車する一等車が連結されていました。それはソビエト連邦と国境を接する土地であり、軍人さんの乗車が頻繁にあったため。
軍属の方々のための一等車連結は、本州で言えば横須賀線で行われていました。同線の列車にはグリーン車が連結されているのはその名残です。

樺太開拓の歴史は、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本領へ侵攻したことで突然終焉を迎えます。

昭和20年(1945)8月9日、ソ連軍は北緯50度の国境を越えて日本領の南樺太へ侵攻。当時40万人居たとされる日本人は逃げ惑い、非戦闘員を含む多くの方々が犠牲になりました。運良く緊急疎開船に乗ることができた住民も宗谷海峡で攻撃を受けて沈没したり、疎開船が国籍不明機に攻撃された「三船殉難事件」など。港町の真岡(まおか、現ホルムスク)では海からの艦砲射撃が加えられ、九人の若い女性の集団自決が行われた「真岡郵便電信局事件」も発生しました。

 

当時のソ連は北海道の北半分も手中に収めようとしていたと計画していたようですが、「熊笹峠の戦い」など日本軍の抵抗が予想以上に激しかったため、想定していた期日内に南樺太や千島列島への進軍を行うことができなかった。そうこうしているうちにアメリカ合衆国大統領トルーマンからソビエト連邦大統領スターリンへ、北海道占領を認めない旨の書簡が出され、現在の占領地に留められたようです。
今、旅人として安心して北海道を訪れることが出来るのは、圧倒的不利な条件下においても国や隣人を想って戦った先人のおかげです。

樺太を制圧したソ連軍は、住民の脱出を禁じたため疎開船は停止になりますが、翌昭和21年(1946)12月から始まった国の引揚事業によって、樺太に残されていた約30万人の邦人が再び祖国の地を踏んだ。
要人、軍人、移住者、出稼ぎ人。大戦末期の疎開住民。戦後の引揚者ら。

稚内と樺太で行われる人の行き来を、こちらの防波堤ドームは全て見守ってきた証人です。
古代ギリシアを彷彿させる70本のコンクリート柱が立ち並ぶ「北防波堤ドーム」の風景は、北海道を訪れる旅人にとって馴染み深いもの。

*「稚内のどこが一番好きですか」
「北防波堤ドームです」

これまで何度も訪れた時より、ドギーと一緒に来ることが叶ったこの時が一番幸せです。

かつて旅人の間では有名だった野宿地

北防波堤ドーム冬景色

北防波堤ドーム周辺は、長い冬になるとこのような姿に変わります。現在も稚内には離島である利尻島(りしりとう)・礼文島(れぶんとう)に発着するフェリーが運航されていますが、発着する場所は防波堤ドームのそばではありません。

そういう意味では、稚内港の景観寄与と歴史の証人が現在の役割と言えます。

かつて、旅人にとって野宿聖地だった

旅中のこの時は、まだ世にスマートフォンが登場していない時代。夕方陽が落ちてから雪がたくさん降り始め、地図を眺めてキャンプ場を探して向かう元気がなくなり、この場所で一晩野宿を行いました。それはもう雪は当たらないし、積もった雪が壁になって風が当たることもなく、快適に過ごすことができました。

防波堤ドーム内は、夏場を中心に多くの旅人がテントを張って野営を行う「有名野宿スポット」でしたが、現在は野宿を禁止する旨の注意書きが掲げられているそうです。残念。

 

北防波堤ドーム

 

旅の期間

令和元年6月ほか


関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です