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そらうみ旅犬ものがたり

童謡詩人ゆかりの港町にある静かな駅<仙崎駅/山口県長門市>

山口県の日本海側に仙崎という終着駅があります。一日数本の列車がやってきては折り返すだけの静かな駅をドギーと訪ねました。

当地出身の詩人・金子みすゞさんもかつて利用したであろう仙崎駅

 

山口県の中での仙崎の位置

鉄筋コンクリート造りの駅舎に和風の装飾が施されている

山口県の日本海側。海に面した港町が仙崎です。鉄道で仙崎を訪れる際に玄関口となるのがこの場所。

本州最西端に位置する山口県。太平洋(瀬戸内海)と日本海に面した数少ない県と言えます

その中で仙崎は中央一番上の部分。市町村で言えば長門市になります。

東へ行けば幕末維新の街「萩(はぎ)」。西へ行けば昨今鳥居が立ち並ぶ風景が有名になった「元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)」や真っ青な海と海上に浮かんでいるように見える人気スポット「角島大橋(つのしまおおはし)」があるエリアです。

 

鉄道整備の歴史

仙崎は長門市北部の海に突き出た部分

仙崎駅は鉄道路線としては山陰本線の一部に含まれますが、本線ではなく支線扱い。長門市駅からの距離はわずか2.2km。その区間内で折り返し運転を行う列車と、南へ向かって美祢線(みねせん)に乗り入れる列車があります。

この辺りの鉄道路線は東西が山陰本線・南北が美祢線になりますが、先に建設されたのは美禰線(みねせん)。日露戦争が始まり大嶺炭田で産出される石炭を徳山にあった海軍燃料廠(かいぐんねんりょうしょう)へ運ぶ必要が生じたため、突貫工事で建設された歴史的経緯があります。
長門市・萩市付近の鉄道は東の島根県から来る山陰本線より南の山陽本線から来る美禰線のほうが早く敷設されたため、当初はその延長として建設されました。山陰本線の全通は昭和8年(1933)と本線を名乗る路線では時代がやや遅めですが、宗郷川橋梁など難しい工事を要する区間が数多く存在することが一因として挙げられそうです。
また山陰本線の整備は明治時代の対露政策の一つで当初は鉄道の敷設が急がれましたが、明治後期の日露戦争の終結によって緊急性が若干和らいだことも、山陰本線の全通が昭和初期にまで及んだ事情としてありそうです。

青い海に美しい曲線を描く鉄道橋<惣郷川橋りょう/山口県阿武町>

山陰本線最後の開通区間になった区間に架かるアーチが美しいコンクリート橋の記事です。

 

仙崎の北にあるのが青海島(おうみじま)。現在は道路橋で本州と繋がっています。

 

金子みすゞ

仙崎生まれの金子みすゞ(1903-1930)

仙崎の名前を一躍有名にしたのが当地出身の童謡詩人の金子みすゞ

金子みすゞの生涯が記された案内板

金子みすゞの詩には魚など海の生き物や情景を謡った作品を数多く見ることができますが、それは港町仙崎の風土と情景が育んだものと言えそうです。詩は20歳の頃から書き始め500以上の作品が残されています。

仙崎で生まれ育ち郡立深川高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)を卒業後下関へ移り結婚。一人の娘が誕生するも幸せな結婚生活とは言い難かったようで、服毒自殺により26歳の若さでこの世を去りました。

生家があった場所には記念館が建てられ、仙崎を代表する人物として後世に語り継がれています。

 

かつて大陸からの引き揚げ者で賑わった地

駅舎内壁に金子みすゞの面影をかたどったものが描かれています

駅の中へ入らせてもらいます。昭和61年(1986)4月に無人化された駅で、列車の発着がある時間以外は基本人影はありません。

かつては、と何を言っても昔の話になるのですが、戦後間もないころの仙崎は外地からの引き揚げ港として賑わった時期があります。主に満州や朝鮮半島から引き揚げてきた方々の受け入れ先になったわけですが、メインとなった博多港の他に仙崎港もその場所に選ばれました。
通常なら上陸後の交通の便を考えると戦前に関釜連絡船(かんふれんらくせん)が就航していた下関港が候補となるところですが、当時の関門海峡は戦時中に米軍が投下した機雷により安全な航行ができる状況になく、そこで日本海側の良港である仙崎に白羽の矢が立ったようです。引揚船が到着した際の仙崎の港や駅の賑わいは、それはそれは活気に満ち溢れるものだったようです。

列車本数は1日6~7本

朝の列車が行った後は12時台に1本あるだけで、午後はまた列車の発着が無い時間帯があります。一度列車に乗ってこちらの駅に降り立ってみたいのですが、列車到着難易度はなかなか難しいと言えます。

 

長いプラットホーム

仙崎駅下り方向

プラットホームに出てみます。終着駅なので駅名標の隣駅表示は片方だけ。線路はこの先で行き止まりです。

仙崎駅上り方向

ここで見る方角から列車がやってきて、仙崎駅で折り返してまた同じ方向に列車が発車するパターン。現在発着している列車の編成数(一両編成が多い)を考えると完全に持て余しているプラットホームですが、これこそが本線格の設備。当初は貨物駅として開業したことや前述の引き揚げ列車の需要等により長いプラットホームが備えられたものと思われます。

日本を代表する難読駅名<特牛駅/山口県下関市>

同エリアにある使用されていない長大プラットホームを持つ駅を訪ねた時の記事です。

 

駅舎には海や鯨の青いイラストが描かれているのが印象的ですが、かつての仙崎・青海島は古式捕鯨の基地として栄えた街。捕った鯨の胎内から出てきた子鯨を祀った鯨墓などの存在に、捕鯨を生業とした当地の繁栄と風習を見ることができます。そのことが描かれているのが仙崎駅の青いイラストです。

 

〇〇のはなし

観光列車向けの仙崎駅駅名標

現在、仙崎駅には観光列車の発着があります。「〇〇のはなし(まるまるのはなし)」と名付けられた列車が平成29年(2017)8月から運転されています。

JRおでかけネット〇〇のはなし→https://www.jr-odekake.net/railroad/kankoutrain/area_hiroshima/marumaru_no_hanashi/

それまで運転されていた「みすゞ潮騒(みすずしおさい)」の後継という位置づけですが、列車名はそちらのほうが良かったなあって思います。

こんな静かな駅に観光列車がやってくることに頭が下がります

仙崎は金子みすゞが生まれ育った街。下関は成人した金子みすゞが暮らした街。金子みすゞに由来する両街を結びかつて鯨漁が行われていた海を眺めながら走る観光列車として運転されているのが〇〇のはなし号です。

 

私と小鳥と鈴と

金子みすゞを代表する詩「私と小鳥と鈴と」

下関に移っての結婚生活がうまくいかず、病気を患った身で詩を書くことも禁じられ、悲しみに打ちひしがれた身で謡ったのがこちらの詩。

最後の一節「みんなちがって、みんないい」

この時代の日本で「人と違うこと」は許されることではなかったと思います。そのことを発するために振り絞った勇気とそのとき金子みすゞが置かれていた状況は想像を絶するものがあります。

人それぞれの個性を尊重する価値観が育ちつつある今だからこそ大切にしたい。そんな金子みすゞのメッセージ。時を超えて現代の私たちに呼び掛けられている詩がこちらであるように感じます。

今回訪れた場所

仙崎駅(せんざきえき)

日程

令和4年(2022)3月


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