徳島県山奥のそのまた奥。ポツンと存在する古民家は春になると美しい桜の花に彩られます。一見特殊とも思えるこの場所は皇族とも関わりがある太古のロマンを秘めています。
三木家住宅への道のり
吉野川沿いの街・穴吹から木屋平(こやだいら)へ向かっていると「国指定文化財」「三木家」と書かれた標識が目に入ります。
四国、特に徳島の山間集落と言えば平家の落人伝説がしばしば登場します。木屋平の地名の「平」はそこから来ているとも言われる。この山奥に伝わるお話はそれより後年。南北朝時代(14世紀)になります。
三木家住宅がある場所へは国道492号から分かれて更に狭い道を行く。通常の時期は交通量はそれほど多くはありませんが桜が咲いているとその来訪者で離合が発生することがあり、運転には注意が必要です。
皇室に麻の衣を献上している一族
着きました。まずはこの場所について学ぶためにお隣の資料館へ向かいます。
こちらも古い日本家屋ですがいわゆる本宅に対しての「はなれ」。家屋の所有者である三木家一族に関する資料館になっています。
新しい天皇が即位して初めて行われる儀式が「大嘗祭(だいしょうさい)」、その際に着用される麻の衣を「麁服(あらたえ)」と呼ぶ。それを代々献上してきたのが阿波忌部(いんべ)氏の流れを汲む「御殿人(みあらかんど)」である三木家一族。
今上天皇の大嘗祭が行われたのは平成2年11月22日。その際に用いられた麁服原料の「大麻(おおあさ)」は平成元年にこの地でそのためだけに育てられ、翌年織物(=麁服)となって献上されました。新しい時代の始まりに新天皇が袖を通す尊い衣の調進が四国の徳島の山奥の小さな集落で脈々と受け継がれ、現代に伝わっていることになります。
当地の字名(あざめい)は「貢(みつぐ)」
国道から分岐する地点は「三ツ木(みつぎ)」
ひと山越えた隣の集落は「樫原(かしはら)」
忌部氏の出自は日本の始まり「大和國(やまとのくに)」。奈良県橿原市に忌部と言う町名があるので(イオンモール橿原付近)そこの出であることが想像されますが、偶然とは思えない地名をこの周辺でいくつも見ることができます。
桜に彩られる三木家住宅
忌部氏の本拠があった橿原から近い場所に「吉野山」があります。今日は日本指折りの桜の名所として知られている同地ですが、吉野は南北朝動乱期に「後醍醐天皇(ごだいごてんのう/1288-1339)」によって南朝が築かれた場所。北朝を立てた「足利尊氏(あしかがたかうじ/1305-1358)」と対立する形が56年間続き最終的には北朝に統一される形で南北朝時代が終わりを告げ室町時代へと入っていきますが、その過渡期に忌部氏の一族は海を越えて四国へ渡りました。
けれど阿波國においても平穏無事な生活が待っているわけではありません。武将・豪族が次々と北朝に加担していく中で南朝方の人間で追われる身でもある忌部氏の末裔は、木屋平に身を潜め南朝勢力を保ち続けました。
麁服の献上は南北朝統一以降行われなくなっていましたが大正天皇の時代に復活。その間も数百年に亘って三木家一族に連綿と受け継がれてきた歴史が踏襲され、現在もその特権が認められています。
徳島県に現存する最古の家屋とされるのがこちら三木家住宅。かれこれ築400年の歴史が刻まれています。
吉野山と言えば桜の名所。木屋平や神山など徳島県山中に桜の名所が多いのはこの地で暮らす南朝の末裔が美しい故郷を偲んで植えたものかもしれません。
ドギーと桜吹雪のカーテンコール
南北朝ロマンを感じることができるこの場所にも、旅犬ドギーとお花見さんぽで来ることができました。家屋部分に近寄らないようにして三木家住宅周辺や桜が咲く公園をドギーとおさんぽです。
しだれ桜の名所・川井峠のそれと同じく標高が高いところにある三木家住宅付近の桜は咲き始めるのが少し遅い時期。平地で桜が散ってしまっている時期でもここへ来ると、桜を楽しむことができます。
が、この時はご覧の通りそれもさすがに終わりかなという様子。
三木家近くの川井峠の桜の記事です。
やや強い風が桜を散らします。点々と落ちている桜の花びらの儚さ。ドギーは気付いているでしょうか。
と、桜の花びらが舞い上がりました。
チラチラ白く見えるのは風に巻き上げられた桜の花びら。この場所の桜が散ればさすがに当シーズンの花見は終了。それを桜吹雪で締めくくることができた、最高のお花見シーズンでした。