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そらうみ旅犬ものがたり

一度も鉄道が走ることが無かったコンクリートアーチ橋<越川橋梁/北海道斜里町>

かつて知床近くの斜里から山を越えて標津とを結ぶ鉄道の計画がありました。

根北線最大の遺構は未成区間に残されている越川橋梁

 

一度も鉄道が走ることが無かったコンクリートアーチ橋

標津…根室國
斜里…北見國

それぞれの旧國名の頭文字を取って「根北線(こんぽくせん)」と名付けられ、昭和32年(1957)11月に一部区間で列車が走り始めました。しかしながらこちらのコンクリートアーチ橋がある区間を含む峠越え区間の開通は叶わず根北線自体が北海道内で収支ワーストを記録するなど業績は芳しくなく、昭和45年(1970)12月に廃止になりました。

正式名称は「第一幾品川橋りょう」

実際に鉄道が運行された斜里(現・知床斜里)-越川は距離が12.8kmしかなく、鉄道跡地は農地などに転用されて痕跡はほとんど残っていません。その中で実際に鉄道は走っていないものの根北線の計画を現代に伝える最大の遺構がこちら越川橋梁です。

越川橋梁は戦前にほぼ完成していたが部分開通は橋の手前の越川駅まで。この区間は未開業→未成線となった

前述の越川橋梁の名称で呼ばれることが多く、登録有形文化財においても後者の名称で登録されています。特徴は単線線幅のコンクリートアーチが10連。そのうち2連が国道244号の拡幅工事の際に撤去され現在の姿になっています。外側はコンクリートで固められていて内部は小石が敷き詰められている工法は、同じく道内のタウシュベツ川橋梁と同じ。基礎が存在しない無筋コンクリート構造です。
昭和14年(1939)に着工して越川橋梁は完成していたものの、根北線自体の工事が戦争による資材不足のため昭和16年(1941)に中断。戦後も工事が再開されることはなく、結果的にこちらの橋を列車が渡ることは一度もありませんでした。

現地に行ってみるとアーチ橋がある越川地区は周辺何kmにわたって民家が無い人跡未踏区間。斜里と標津との間には標高487mの根北峠があるため運用計画や工期に無理があった感が否めません。

 

戦争が生んだ越川橋梁と根北線

橋を含む人跡未踏の地を行く根北線が計画さソ対策の面があった

逆に言えばそんな場所なのに鉄道が計画されたれたのは対理由はソ連の存在があります。オホーツク海側(斜里)・太平洋側(標津)どちらかにソ連軍が上陸した場合、迅速な補給や輸送が必要になります。そんなときに両者の行き来を可能にするのが根北線の計画でした。わざわざ物の無い戦時体制中に着工しなくてもという感じですが、戦争が迫っている時だからこそその必要があったようです。

その突貫工事のためタコ部屋労働や工事で亡くなった方々を人柱として橋脚に埋めた噂など、こちらの橋には負の面が存在します。

 

風光明媚な路線になっていた可能性

斜里岳に向かって走る予定だった根北線

場所が場所だけになかなか行くことができない場所ですが、橋を空から眺めてみると美しい弧を描いたコンクリートアーチとその先には標津方面に向かって鉄道予定地とおぼしきカーブが確認できました。

その奥には日本百名山斜里岳。もし鉄道が走っていたら斜里岳の雄大な姿と峠からは千島列島(北方領土)や知床の山並みを見ることができる、風光明媚な路線になっていたことが想像できました。

今回訪れた場所

越川橋梁(こしかわきょうりょう)

日程

令和4年(2022)5月


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