吐噶喇列島の群発地震、心配ですね。トカラはドギーと何度も旅をさせて頂いた土地なので、とても思い入れがあります。島民の皆さまが無事であられますよう、願いを込めて悪石島の旅を回想したいと思います。

フェリーとしま

こちら「フェリーとしま」は平成30年(2018)に新船「フェリーとしま2」の就航に伴って引退したので、現存しません。乗船自体が貴重な思い出です。

いつもかどうかは分からないのですが、この時は早めに乗船させて頂くことができて、船内レストランは同窓会のように盛り上がっておりました。

マット
毛布
枕
が各席に割り当てられます。寄港地は七つあるので、区画は概ね行先ごとに分けられている気がしました。でないと一島目の口之島は5:00ですし、七島目の宝島は11:30。寝たい時間、起きる時間がそれぞれですもんね。
とは言え、この時は初めてのフェリーとしま初めての吐噶喇列島だったので、良い意味であまり寝た記憶がありません。早朝の口之島からワクワク全開でした。
吐噶喇列島と十島村

七つなのに七島ではなく十島。
戦前は現在の三島村の三島と十島村の七島を合わせて「十島村(じっとうそん)」と呼ばれていました。
上十島(かみじっとう)…竹島、硫黄島、黒島
下十島(しもじっとう)…口之島、中之島、臥蛇島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、宝島
分村のきっかけは第二次世界大戦の敗戦。それによって北緯30度線が通過する口之島以南が、他の奄美諸島と同じく米国海軍政府の施政下に入りました。上十島は日本、下十島はアメリカ合衆国に分断されたわけです。
以降は上下別々に歩むことになり、昭和27年(1952)2月4日に下十島を含む奄美群島が日本に返還されてからも、元の十島村(じっとうそん)には統一されず、
上十島→三島村(みしまむら)
下十島→十島村(としまむら)
になりました。
なお、かつての下十島も現在の十島村も同じ七島として紹介されますが、
下十島…口之島、中之島、臥蛇島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、宝島
・臥蛇島(がじゃじま)が有人島だった ※現在は離村により無人島
・小宝島は宝島の属島扱いで十島にカウントしなかった
十島村(としまむら)…口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小宝島、宝島
それぞれカウントする七島が若干異なります。似た事例では、東京都の伊豆七島も数える島と数えない島があります。
吐噶喇列島の場合は、本土復帰に際して読み方を変えるのであれば七島村じゃダメだったのかという疑問がありますが、「十島」という地名に愛着があったのかもしれませんね。
ちなみに三島村も十島村も役場は鹿児島市に置かれています。日本で他の街に役場が置かれている自治体は三例あり、沖縄県の竹富町役場が石垣市にあります。
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ドギーと三島村(上十島)の硫黄島を旅した時の記事です。
悪石島

吐噶喇列島は平家落人伝説の南限とも言える土地で、その名も「平島(たいらじま)」。平家の末裔が名乗ったと伝わる諏訪を冠した「諏訪之瀬島(すわのせじま)」。
「悪石島(あくせきじま)」はそれ自体に平家が含まれているわけではありませんが、この名前を付けておくと源氏の追手が来たがらないだろうと名付けたようです。
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三島村(上十島)に伝わる平家落人伝説の地をドギーと旅した時の記事です。

お盆になるとご先祖さまの霊が帰ってきてくれますが、それと共に悪霊も現世にやって来るので、その悪霊を追い払うために登場するのが仮面神ボゼと言われます。ボゼが現れるのは悪石島だけで、他の島には出現しません。
私はこの姿がとっても気になります。大和とも違うし、琉球や東アジアにも居そうにないこの姿形。南太平洋の神様と言われればしっくりくるような…。吐噶喇列島の遥か南にはニューギニア島があるので、そのような土地から伝来したと言っても不思議ではないですね。
一目でいいから仮面神ボゼを見たい気持ちはありますが、これはなかなかハードルが高いです。
ボゼツアーに参加するか、個人で来島するか。
前者だと宿は確約されるのでしょうが、そもそも島内に豊富にあるわけではないので、大抽せん会になると聞いたことがあります。なので個人の民宿予約は事実上困難だとか。
そこでキャンプという方法になるわけですが、旧暦7月→新暦8月です。水も食糧も全て事前に用意して8月にキャンプ。更にお祭りの時は二泊必須(通常は下り便が着いた翌日に上り便が来る)。
私は自信が無いです。
アイランドホッピングが楽しめます

目指す悪石島は4時間以上後なのですが、眠気より口之島を一目見たい気持ちが勝ちました。何が見えるわけではないのですが、フェリーのデッキに出て口之島を眺めていました。
日本の陸地で北緯30度線が通過するのは、この口之島が唯一。世界で見ればペルシア湾最奥のクウェートやアメリカ合衆国のフロリダ半島が北緯30度が通っています。

この時の寄港順は画面の点線通り、
鹿児島→口之島→中之島→平島→諏訪之瀬島→悪石島→小宝島→宝島→(名瀬)
※名瀬入港は一部便
なのですが、この旅の後で
鹿児島→口之島→中之島→諏訪之瀬島→平島→悪石島→小宝島→宝島→名瀬
に改められました。距離と時間を要する航路を取っていたのには理由があります。

臥蛇島は昭和15年(1940)には村内最大の人口133人を記録した事もある一方、吐噶喇列島の中でも特に地形が険しい島。島の周囲が断崖絶壁で定期船が発着することができず、沖に停泊する船へ臥蛇島から艀(はしけ)を出して人や荷物を運び、島に上陸しても急斜面を荷物を担いで上がらないといけない。その艀が出せたらまだいいほうで、海が荒れる時期には月単位で物資が届かず飢饉騒ぎになることもあったそうです。水も豊富ではありません。
そんな厳しい自然の中にあっても島民さんたちは力強く自給自足の暮らしを営んでいたようですが、やがて人口減少により島での暮らしを維持していくことが困難になり、鹿児島市などへ集団移住。臥蛇島は昭和45年(1970)7月に無人島になりました。
無人島になった臥蛇島には定期船は寄港しなくなったのですが、フェリーとしまは以降もそれに準じた航路を取り続けました。臥蛇島が無人島になっても40年くらいは現状維持だったのでしょうか。私はその切り替わりのタイミングで吐噶喇列島に来ていて、1回目2回目は旧航路。3回目は新航路。新航路だと臥蛇島の近くを航行することはないので、臥蛇島の岩肌が見えるほど近づくことができたのは幸運なでした。

初めて訪れる土地は高揚感が湧きますが、それが船で何時間もかけて行くような場所だと猶更。
「ここまで来たんだ」

旧航路では、悪石島の一つ前が諏訪之瀬島(すわのせじま)でした。

有史以来火山活動が盛んな諏訪之瀬島は、大噴火が起きて全島避難を余儀なくされた事がしばしばあります。実際訪れてみると畑の野菜の葉には火山灰が積もってますし、外に洗濯物が干せません。
現七島の中でもとりわけ環境が厳しい島の存続に一役を買ったのは、ヒッピーの存在でした。諏訪之瀬島はヒッピーのコミューンとして名が知られる存在になり、1960~1970年頃に多くのヒッピーがこの聖地を目指してやってきたそうです。
同じくらいの時期に臥蛇島が全島離村になりましたが、臥蛇島が存続を諦めた理由の一つに近い将来に艀作業ができなくなることが確実視された点があります。諏訪之瀬島に住み着いたヒッピーたちは時に艀作業を手伝う貴重な労働力になり、火山活動により定住が難しかったこの島を盛り上げていったそうです。
悪石島に到着

この島の名前を知ったのは、小学生の頃に地図帳を眺めていて発見したのが初めてだった気がします。
「地名に悪?」
「人口100人未満?」
「定期船は週2便?」
ここの人たちはどうやって暮らしているんだろう。
色々疑問が湧きこの島名が頭にインプットされました。

悪石島を知って以来、漠然と行ってみたい気持ちがありましたが、それから十数年経ってから実際に来ることができて、感動もひとしおです。

乗って来たフェリーとしまから降りて、キャンプ場に向かう途中で振り返ると、フェリーとしまは早々に次の小宝島へ向かって出て行きました。
フェリーとしまの就航周期は、基本は一航海3日。
①鹿児島→②吐噶喇列島各島→名瀬→③吐噶喇列島各島→鹿児島
のようなサイクルなのですが、
①鹿児島→②吐噶喇列島各島→名瀬③停泊→④吐噶喇列島各島→鹿児島
この時は、奄美大島の名瀬港で停泊がある一航海4日のサイクルでした。
悪石島に到着するのは9時台で、上り便は7時台。一航海3日サイクルだと島での滞在時間が24時間無いんですね。なので間で丸一日島で過ごすことができる一航海4日サイクルはとってもありがたかったです。
続く。
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ドギーと吐噶喇列島を旅した時の記事です。