根岸森林公園には区画が二つあり、北側にこちらの建造物が残されています。競馬場在りし日は一等馬見所として、数多くの要人がこの場所から競馬を観戦したことと思います。

江戸時代に始まった日本の近代競馬

そもそもの競馬場開設の機運は、開港された横浜で暮らす外国人たちが娯楽として競馬を要望したことにより競馬場が整備された事に起因します。当初は常設ではなく場所も転々としていたため、恒久的な競馬場での競馬開催を目指して造られたのが根岸の横濱競馬場になります。
ある面では外国人の接待の側面があったわけで、明治期のそれと言えば鹿鳴館での外交を学校で教わりますが、それは1883年(明治16年)の事。同時にそちらは失敗に終わり、戦前時点で取り壊されて現存しない事を学びます。しかしながら当地根岸での競馬は、最初は外国人にだけ許されていたものが後年日本人にも開かれ引き継がれ、やがて日本の競馬事業は世界一の賞金や売り上げを誇るまでに成長しました。また昨今は日本馬のレベルアップも顕著で、海外のレースに遠征してそこで勝利する姿も珍しいものではなくなりました。その先鞭の地が横浜の根岸であり、こちらの建造物はその遺構です。
なお、横濱競馬場と根岸競馬場は同一のものです。広大な土地を必要とする競馬場は建てた当時は土地に余裕があった郊外に造られたものが多く、例えば東京競馬場であれば府中市にあるわけで、府中競馬場と言ったりします。京都競馬場であれば淀、阪神競馬場であれば仁川と呼ぶように。当地の場合は正式名称が横濱競馬場で、愛称・通称が根岸競馬場のような感じだと思われます。
根岸競馬場一等馬見所

こちらの建造物は「旧根岸競馬場一等馬見所」の名称で文化財登録を受けています。一等馬見所とは広義的には観客席の一部ですが、一等と付いているのでより高い位置から競馬を観戦することができる観客席に当たると思われます。かつての横濱競馬場には二等馬見所も設置され、観客のニーズに応じて棲み分けが図られていたことから、こちらは馬主か役員、来賓の方々が競馬を観覧するための客席ではないでしょうか。
現在こちらの建物に最も接近することができるのがこの場所になりますが、この地点は当建造物を設計したJ・H・モーガン(Jay Hill Morgan/1873-1937)の名前を冠した「モーガン広場」となり、在りし日の競馬場の写真や設計図等がパネルに転写され紹介されています。

こうして見ると一等馬見所が競馬場の観客席の一部だったんだなあと分かります。確かに競馬が高覧できる構造です。
右は現存しない二等馬見所ですが、バルコニーなどが無い等構造面で差別化されていた印象で、一般的なファンの区画だったことが分かります。
両スタンドの間。柵沿いに小さな小屋があることが分かりますが、こちらは審判台と呼ばれるもの。ゴール地点ですね。現在行われているゴール判定は写真によるものですが、競馬黎明期はこの小屋に審判が居て、ゴール判定を行っておりました。根岸であったかどうか分かりませんが、微妙な判定の時にはファンが審判台を取り囲んでわあわあ抗議するようなこともあったかもしれませんね。

一等馬見所は3つの塔がそびえる姿が特徴的ですが、そこからバルコニーがせり出しそれを支えつつ観客を雨風から守る屋根が掛けられていたわけですね。ここで見ることができるスタンド上部の構造物を現在見ることができませんが、そこは海軍接収時に金属供出により取り払われたかもしれません。

J・H・モーガン設計による一等馬見所は、それまであった観客席が関東大震災に被災したことにより1929年(昭和4年)に新設されたもの。その翌年に米国で世界恐慌が起こりますので、時代が少しでも遅かったらこちらの建造物が世に現れる事はなかったかもしれません。

そりゃ、あれでは競馬はできません。現在のアップダウンは進駐軍に接収後、ゴルフ場として造成された名残であることが分かりますね。
先ほど話に出た審判台の位置をご覧ください。その左側にスタンドの行き来を制限する柵が設けられていますが、その手前。すなわち一等馬見所側に審判台が設置されていたことが分かります。そこは両スタンドの客層に応じた判断ということでしょうね。

正面から見たスタンド形状は、少し前の地方競馬で見ることができた形状であるように思います。無骨な柱が何本か立ち並ぶスタンド形状は、笠松競馬場(岐阜県)がそうじゃなかったかなあと思って調べてみましたが、さすがに現在はスタンド改修が行われて違いました。
正面はそうなのですが、裏側からスタンドを見るとそこは流石根岸ですね。後ろから見る姿は二等観覧席と言えど風格があります。貴賓室やレストランのように複数の用途に応えるために間取りされた一等観覧席と違い、こちらはより大勢の人が競馬を楽しむために空間が広く取られているような気がしました。
一等馬見所の見学は早いうちに

日本において競馬場が廃止される理由は、昭和時代なら「社会悪」として排除。平成時代であれば「赤字」で清算された例が多く、そのような経緯から廃止後は跡形も無く転用され記念碑さえ残らない場合がほとんどです。しかしながらこちらは競馬場であった痕跡を留め、そのことが堂々と紹介されていたことに称賛を覚えるとともに、個人的に来る前に想像した以上の満足度がありました。競馬ファンであれば一度訪問をお勧めしたいスポットです。
ただ心配なのはこちらの一等馬見所がいつまで存在するかな、という点。
一等馬見所と二等馬見所(現存しない)は、旧横濱競馬場敷地の大部分が返還された1969年(昭和44年)時は返還が見送られ、国への返還が完了したのは1981年(昭和56年)の事。その後横浜市が譲り受けて活用法を模索するも、スタンドに入場できるようになると米軍地が見渡せるのが問題ありとの事で、改修を行うことが出来ず現状のまま留め置かれました。日本の国土での事なのに主権がないのは悲しい…
見た所ガラスが割れてそこから侵入したカラス等が住み着いているようで、建物の老朽化に伴って少し不気味な雰囲気があります。それこそ関東大震災規模の大地震が起きるとスタンドが倒壊することも考えられ、塔の上部等が崩れた場合にそれが近接する住宅地に転落して住宅を押しつぶすようなことも考えられます。現在はそれほど近い位置に住宅地が広がっています。
森林公園区画に戻ってきました

第1コーナー付近に戻り第2コーナーを回って現在は向正面。
それにしてもこの日は天気がとても良い! ドギーと飼主のみならず、わんちゃんを連れて根岸森林公園でのおさんぽを楽しまれている方々が大勢いらっしゃいました。

旧走路を一周して自動車を停めている第一駐車場がある地点に戻ってきました。遊歩道からは低い位置になるのと前面に木々が折り重なっているため一等馬見所は見えませんが、こちらは少し高台なので特徴的な3つの塔が少し見えます。
この場所を去った後に知ったのですが、旧横濱競馬場の売りの一つにスタンドから富士山が見えることが特徴の一つだったようです。今でもスタンド裏のモーガン広場付近からよく見えるとか。そちらに居る時は建物と展示ばかりに目がいって、全く気にしていませんでした。まあ、見えてなかったことにしましょう。この快晴ではありますが…
第39回根岸ステークス(2025,2/2,Sun.)
さて、2025年(令和7年)2月2日に東京競馬場ではGIII根岸ステークスが行われます。芝競走が主体の中央競馬にあってダート1,400mで施行されますが、これは中央競馬では3番目に長い歴史を持つダート重賞競走になります。
その根岸とはもちろん当地にあった根岸競馬場の事で、レース名に姿を変えて歴史を刻んでいることになります。今年この場所を訪れて、根岸に少し親しみが出来たので、普段はすっかり馬券を買わなくなった身ですが今年は少し買ってみましょうかね。
⑤サンライズフレイム 去年同レース3着。今は亡き藤岡康太騎手が乗っていて、今年は兄の藤岡祐介騎手が乗る
⑨コスタノヴァ 東京コース4戦4勝負けなし
久しぶりに競馬新聞を眺めてみましたらなかなかの好メンバーでした。中でもこの二頭に注目。全人馬無事の完走を願いながら応援したいと思います。
⚠公園内でのドギーの撮影について
横浜市の条例により公園での犬の放し飼いが禁じられているため、ドギーを繋いでいるリードを写真に映らない位置で手に持って撮影しております。