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そらうみ旅犬ものがたり

幾多の難局を乗り越えて見ることができる奉安所<旧開明小学校/兵庫県尼崎市>

旅犬ドギーの飼主の地元・兵庫県尼崎市。市内で最も古い歴史を持っていたこちら開明小学校は平成16年(2004)に学校統合によって廃校になりました。昭和12年(1937)竣工の古い校舎と校庭は尼崎市の施設として活用されています。ドギーにとっては入れる/入れない部分がありますが、古い校舎を散策してみることにします。

阪神電車尼崎駅近くの立地。背後には高層マンション

 

市民の公園に転用された校庭

公園に転用された校庭は都会のオアシス

近くの城内小学校と統合される形でその歴史を閉じた開明小学校。その小学校跡の校庭は現在誰もが楽しむことができる公園になっています。

場所は阪神尼崎駅から徒歩2・3分と至近距離。地域的に尼崎市内でも賑やかな歓楽街が広がっているエリアで周辺道路の交通量も多い。けれどこの空間だけは落ち着いた雰囲気があります。

 

昭和初期の学校名建築

突き出た時計台に南端の半円筒の出窓が特徴

統合により学校として役目を終えてから15年以上経っていますが、校舎はきれいなまま維持されています。

煙突のように突き出た形状の時計台

「L字型」の校舎に、先端が煙突のように突き出た形状。その最上部には時計が設置され往時は児童らに。今は市民へ時を告げるランドマーク。

円形窓に意匠的な装飾

校舎に目をやると、円形の窓とそれを護る鉄柵がしばし見とれてしまうようなデザイン。どことなく音楽記号の「ト音記号」に見えるような気がしますが、自分だけでしょうか。学校には音楽の授業もあるので学び舎にはぴったりのデザインだと思います。

市内では近くの旧城内小学校の校舎でも同じものを見た記憶があります(※現存しません)。

半円筒形のエントランス

現在は「尼崎市役所開明庁舎」として機能している旧校舎。南角は校舎から少し突き出て丸みを帯びたデザイン。

竣工当時の窓枠の素材はどうだったのでしょうか

外部が吹き抜け構造になっていて空を見上げることができます。現在は窓枠にアルミサッシが入っていますが長い歴史を持つ同校の事。昔昔はどうだったのでしょうか。木枠か、鉄枠か。一層味がある素材だったに違いありません。

現在は市役所の出張機関

廃校後に新しい出入り口として自動ドアが設置されました。

登録有形文化財の銘板

こちらを忘れてはいけません。国指定の「登録有形文化財」の銘板。選定された理由は「昭和初期のRC造学校建築の好例」だそうです。

 

解体を免れた他では見られないもの

校長室、その中に何やら重厚な扉がある

旧校舎内へ入らせて頂きました。内部を散策させてもらうと「校長室」と掲げられた部屋の中に何やらただ物ではない感が漂う重厚な扉が目に入ります。

大理石造りの奉安所(ほうあんじょ)

明治33年(1900)の小学校令全面改正によって「教育勅語(きょういくちょくご)」の朗読が義務化され、その文書と御真影の下賜を受けた各学校ではそれらを丁重に保管する義務が生じることになった。

※御真影…天皇・皇后両陛下のお写真

奉安所に契機が訪れたのは戦後。昭和21年(1946)1月1日、天皇陛下が新年に際し

「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」
(しんねんにあたりちかいをあらたにしてこくうんをひらかんとほっすこくみんはちんとこころをひとつにしてこのたいぎょうをじょうじゅせんことをこいねがう)

このように述べた。いわゆる天皇陛下の「人間宣言」 ※実際には、自身が神や人間を区別したり宣言を行う文言は存在しない

それを受けて「GHQ(General Head Quarters/連合国軍最高司令官総司令部)」によって全国各地の奉安殿を撤去する指示が出される。しかしながら何らかの理由により解体や破却を免れたものがあった。その貴重な一つが旧開明小学校に残されている奉安所です。

奉安所…校舎内の金庫型
奉安殿…屋外の独立建築型

当初は校舎内の大切な部屋すなわち校長室に設けられたが、関東大震災が発生した際に建物と共に奉安所の倒壊・焼失が多く発生した。それを受けて災害の巻き添えを防ぐために屋外型の「奉安殿(ほうあんでん)」へ建て替えられていった。そのような事情から旧開明小学校のような屋内金庫型の奉安所が残されていることは極めて珍しい事例です。

奉安所の前を通る際は生徒職員全ての者が服装を正し脱帽の上最敬礼を行うことが定められていた。御真影や教育勅語の破損があった場合は始末書の提出や免職、失火等による焼失の際は校長先生が自殺した等、きわめて丁重に扱われた話と共に物騒なエピソードも全国で数多い。

また学校業務の一つにいずれかの職員が学校に宿泊する「宿直」があるが、これは御真影の保護を目的として始められたものとされています。

 

開明小学校の奉安所はどうして残った?

ドギーは中へ入って見ることができないけれど、一緒に考えてみます

それではどうして旧開明小学校の奉安所は撤去を免れたのでしょうか?

私的な想像ですが、造形がシンプルだったことが有利に働いたのではないでしょうか。すなわち「貴重品倉庫」に転用できたとか。屋外型の奉安殿は意匠を凝らした造りのものが多く転用が利かない。奉安殿の撤去命令は人々の心から神格化された天皇の記憶を消すことが目的でしょうから、見てそれとわかる建物の存在は困ります。ドギーと一緒に校庭をおさんぽしながら考えてみるものの詳細な理由はわかりません。

けれど第二次世界大戦の戦火に耐えて奉安所の撤去を免れ、阪神淡路大震災にも持ち堪えて、統合によって廃校になっても開明小学校の校舎は存続しました。建設当時にしっかりと造り込んだ先見の明はもちろんですが、人智では言い表すことができない「護られている」何かがここにはある。ここはそう想いたくなるような素敵な空間だからです。

小学校の外壁に残された無数の機銃掃射痕

開明小学校の校壁に残された機銃掃射痕の記事はこちらです。

今回訪れた場所

旧開明小学校(きゅうかいめいしょうがっこう)

日程

平成28年(2016)4月


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