画面上部に戻る

story

そらうみ旅犬ものがたり

黒船賞の思い出「高知競馬場/高知市」

春が来るとまたこの季節が来るなあとワクワクします。四国唯一の競馬場である高知競馬場で行われるダートグレード競走・黒船賞JpnⅢです。

回を重ねて今年第27回。連覇中のJRA馬シャマル号の三連覇なるかに注目が集まります。

 

かつて開催することができなかった黒船賞があるんです

平成19年(2007)黒船賞開催にあたり募った「かいばおけ支援金」。広島カープで戦後に行われていた樽募金と同様のものですね。

今でこそ年間999億円という全国の地方競馬の中で屈指の売り上げる高知競馬場ですが、2000年代は全国の公営競技にとって暗黒時代で、高知競馬では黒船賞を開催するだけの資金が足らず、ファンらに募金を募る「かいばおけ支援金」を行っていたことがありました。

かいばおけ支援金や各方面からの協賛によってこの年の黒船賞はなんとか開催できたものの、

資金難で開催を返上した平成20年(2008)黒船賞のリリース。

翌年の平成20年(2008)はついに黒船賞中止を決断せざるを得ませんでした。全国で次々地方競馬場が廃止されていく中で「次は高知だ」。と競馬ファンの誰もが思っていたように思います。

あれから通年ナイターレースの開始やインターネット投票の拡充。コロナ禍での巣ごもり需要等で馬券のインターネット購入のハードルが下がり、コロナ禍収束以降も全国的に公営競技の売り上げ上昇が続いています。

売り上げがどん底だった2008年の年間売上は38億円(2024年の年間売上は999億円)、一日あたりの売上平均4000万円(2024年の1日平均売上は8億円)。

黒船賞が始まった頃や開催することができなかった時代があった事を想うと、こうして無事に黒船賞が開催されることは何よりも嬉しく感じています。

そんな第一回開催を回想してみたいと思います。

 

第1回黒船賞

四国にも競馬場があるんだ。

初めて高知競馬場を知った時の記憶です。それから程なくして第一回黒船賞が開催されました。平成9年(1997)3月の事です。

当時は今みたいにインターネットでリアルタイムの中継が見られるわけはなく。
JRAのレースならテレビや雑誌(競馬ブック等)などでそれなりに新しい情報を入手することができますが、
地方競馬の、それも住んでいる場所の近くではない競馬場の情報を得るのは至難の業。
平成7年(1995)に中央地方指定交流競走(現・ダートグレード競走)が始まってからは、レース結果であれば翌日のスポーツ新聞に掲載されるくらい。
結果がすぐに知りたい時はその競馬場に電話して競走結果をFAXしてもらったり、実況放送を流し続けているテレホンサービスを電話で聞いたりしてました。
場合によってはレース映像のビデオテープを送ってくれる主催者さんもありました。

黒船賞のレース情報を得たのは前述のテレホンサービスで。映像を見たのはだいぶ時間が経ってからの事。地方競馬の広報誌「furlong」(読みはハロン)の表紙に第一回黒船賞を優勝した北野真弘騎手のド派手なガッツポーズが掲載されていたことが初見でした。動く映像はもっと後です。
そのハロンって雑誌は一般的な書店では取り扱っておらず、当時の自宅の近くにある園田競馬場内の物販コーナーが唯一の入手先でした。当時は未成年ですから入場時に「子どもが何しに来たんや」と止められるのですが、「欲しい雑誌があるんです」「はあ?」「ここは本屋やない。嘘をつくな」「いやいや、ここでしか売っていない本があるんですよ」のようなやり取りがあり、警備員さんはそんな雑誌があることもそこで売っている事も知らないものですから、最終的にはそれを把握している園田競馬場の偉い人に来てもらって我が潔白を証明できたことがありましたね。ハロンはそんな青春時代の思い出の本の一つですが、同雑誌はだいぶ前に休刊されて現存しません。

今でこそ年間何度かJRA馬と好勝負を繰り広げる地方馬が現れますが、当時の統一グレード競走はJRA馬の独壇場で、砂の女王と称されたホクトベガが大差で連戦連勝するような状況。地方馬はJRA馬に全く歯が立たず、JRA勢に競馬場を貸しているも同然の状態。第1回黒船賞もそんな下馬評だったような気がします。

結果的に初代王者に輝いたのは地元の⑦リバーセキトバ(高知)でしたが、同馬は決して地元大賞格ではなく、それは⑥マルカイッキュウ(高知)だった気がします。実際リバーセキトバは9番人気での勝利でした。
この両馬は元JRA馬で、リバーセキトバはダートの短距離で後方からレースを進める馬。マルカイッキュウはダートの中距離で同じく後方からの差し戦法を得意とする馬。高知時代はライバルでしたがJRA時代はそれぞれ関東・関西所属で、オープンレース等でそこそこ見かけては入着あるかのような成績だったように思います。それが高齢になっても高知で元気に走っているなんて、高知競馬はいいところだなあと思いました。
この時代にJRAから高知に転入する馬は高齢でJRAでの成績が頭打ちか、脚元に不安があって療養しながらレースに出走する目的での高知転入があったように思います。そのエピソードは「たいようのマキバオー」にも出てきますね。
平成5年(1993)GⅡセントライト記念を勝ったラガーチャンピオンや、三冠馬ナリタブライアンと同期でクラシックレースにも出走したナムラコクオー。平成7年(1995)GⅢ札幌記念を勝利したスーパープレイなど、競馬ファンには名の知れた馬を高知競馬場で見ることができました。

第1回黒船賞で人気していたのは⑪ストーンステッパー(JRA)で、前年にGⅠに昇格したフェブラリーステークスで2着に惜敗した馬。
武豊騎手が乗る⑨フジノマッケンオー(JRA)は三冠馬ナリタブライアン号の同期で、皐月賞3着、東京優駿4着と芝レースでも好走していましたが、この頃は各地のダート競走に活躍の場を移していました。
他のJRA勢ではJRA最高齢出走記録を持つ鉄人④ミスタートウジン(JRA)や、最終的には凱旋門賞が行われるフランスのロンシャン競馬場にも出走することになる⑫ドージマムテキなど。
地方他地区の馬でも短距離に実績があった⑤トミケンライデン(笠松)と中長距離に実績があった⑩アメージングレイス(笠松)ら。それぞれ安藤兄弟が騎乗、ワカオライデン産駒、荒川厩舎という笠松競馬場から次々活躍馬が出ていた時代の馬たちですね。

いずれも統一グレード競走で実績があったり遠征経験が豊富な馬たちで、それをいつも同じ馬たちと走っている高齢の高知馬たちでは役不足だろう、というのがレース前の下馬評でした。

けれど競馬は走ってみないと分かりません。
それらの人気馬が激しい先行争いを繰り広げたためペースが上がり、後方で待機していたリバーセキトバの北野真弘騎手の好判断もあり、記念すべき黒船賞初代王者に地元高知の馬が輝きました。昨年、JRAのあるGⅠレースで勝利を確信した騎手がゴール前で大きなガッツポーズをして制裁を受ける事例がありましたが、いやいや、この第1回黒船賞はそれ以上ですよ。ぜひ↑映像を見てご覧ください。もう終わったと見られていた地元の高齢馬がJRAのエリートたちをまとめて差し切ったレース内容も痛快でしたが、30年近く競馬を見てきて今だこれを超えるガッツポーズは見たことがありません。

黒船賞は今年2025年で回を重ねて27回。結果的に高知の馬が黒船賞を制したのはこの時一回きりですが、毎年春になり黒船賞の開催が近づいてくるとこのレースを思い出します。数ある競馬のレースの中で自分の中ではベストレースが第1回黒船賞です。そして2000年代の黒船賞開催が。競馬場の存続自体が危ぶまれていた時代を想うと、高知は本当にがんばったんだなあと頭が下がる思いです。

これからも競馬開催に関わる全人馬の無事と好レースを願っております。

第1回黒船賞 1998年3月24日(火)

1着⑦リバーセキトバ(高知) 9番人気
2着⑨フジノマッケンオー(JRA) 3番人気
3着⑪ストーステッパー(JRA) 1番人気
4着④ミスタートウジン(JRA) 7番人気
5着⑥マルカイッキュウ(高知) 4番人気

今回訪れた場所

高知競馬場

日程

令和7年(2025)3月


back

前の画面に戻る

前の画面に戻る

© そらうみ旅犬ものがたり