「久留里線」と聞いて、縁もゆかりも馴染みもないのですが、どこか耳馴染みの良い地名という印象を持っておりました。鉄道好きの同名のアーティストから連想されるものでしょうか。同線をドギーと訪ねてみると、それはそれは知らないことばかりでした。

房総半島横断を目指した久留里線

構想段階では内房の木更津から外房の大原まで房総半島を横断する計画がありましたが、第二次世界大戦の路線休止等があり未成に終わりました。接続を目指して反対側の外房から建設が進められたのが木原線。現在のいすみ鉄道いすみ線です。
【内房線】木更津
↓ 22.6km
久留里 ※今ここ
↓ 9.6km
上総亀山
・
・ 未成区間
・
上総中野
↓ 26.8km
【外房線】大原
未成に終わった上総亀山駅と上総中野駅の距離は10km少しなので、どうにかならなかったのかなあと思いますが、戦争が無ければというところなんでしょうね。
ちなみに久留里線が接続を果たせなかった上総中野駅へは小湊鉄道が来ていて、いすみ鉄道と接続することで房総半島横断を果たしています(レールは繋がっていますが、相互乗り入れは行われておりません)。小湊鉄道は外房の安房小湊駅を目指して建設されたことが社名の由来。資金難等により延伸は上総中野駅までになりました。全てが全通していれば五井・木更津・安房小湊・大原を「X」の字のような鉄道網が形成されていたわけです。
図らずも小湊鉄道といずみ鉄道は房総半島横断を達成できましたが、三者の中で久留里線だけが行き止まりで終わってしまったのが残念ですね。
久留里駅

同線の中心駅で数少ない有人駅でもあります。かつてはみどの窓口も設置されていました。

昨今は無人駅が珍しいものではなくなり、2020年頃の記録では全鉄道事業者の駅の中で約48%が無人駅だったようです。それからコロナ禍があったので、2025年現在では半数を超えているかもしれません。あの坪尻駅でも昭和45年(1970)頃まで駅員さんが居たそうです。私が子どもの頃は「駅から駅員さんが居なくなるなんて…」と思ったものですが、今や「駅から駅舎が無くなるなんて…」になってしまいました。
駅の管理も費用を要するわけで、それが利用者が少なくなっては割に合いません。かと言って古い駅舎は耐用年数や耐震強度の問題があるので、取り壊されて簡易的なバス停タイプになることも、鉄路維持のためにはやむを得ない事なのでしょうね。今JR四国にその波が来ています。100年クラスの木造駅舎が取り壊されることは非常に残念ですが、逆に言えば更新される駅はたちまち駅なり路線なりが廃止になる可能性が低い駅なのかなあと考えるようになりました。
100年を超える木造駅舎が更新された、香川県の讃岐財田駅の記事と空撮映像です。

下り上総亀山方面は運転本数がまばらな感じで、午前から午後にかけて5時間半くらい列車が運転されない時間帯があります。こちらが廃止が取り沙汰されている区間及び便数でもあります。
昭和19年(1944)12月 久留里-上総亀山 休止
昭和22年(1947)4月 久留里-上総亀山 営業再開
この末端区間は戦時中に不要不急線に指定されて休止されていたことがあります。運行休止の前月には、サイパン島を飛び立った爆撃機が東京へ初めて空襲を行っているので、戦局がかなり差し迫った状況であったことが窺い知れます。
※サイパン島からではない東京への初空襲は昭和17年(1942)4月のドーリットル空襲
千葉県は館山や茂原などに旧海軍があって現在もその遺構が見られるように、帝都防衛の最前線として軍備が強化されていた土地。そのような立地なので不要不急になるどころか、むしろ軍需輸送を目的として突貫工事が図られるのじゃないかと思ったのですが、地図を見ると仮に全通していたとしても短略ルートにはならなそうです。既に内房線外房線が開通していて、それより短いルートにはならない。両端に大きな軍需拠点があるわけでもない。沿線で鉱物資源が産出されれば話は別ですが、それもあまり無さそう。それらの点から延伸が進められなかったんじゃないかなあと感じます。

全国的に見ても戦時中に不要不急線に指定されたところはその後復活しなかったか、復活してもやがて廃止になる例が多く存在します。昭和20年頃の時点で営業成績や路線の未来が明るくなったのかもしれません。このたび久留里線の末端区間もその例に含まれてしまう事は、寂しい気がします。
こちらは戦時不要不急線と関連した内容に触れている記事です。
久留里駅訪ねとドギー

しかしながらそれは久留里線沿線が酒処であることを知らなかったからで、それを知ったからには次回この地を旅する時は名水名手めぐりと久留里線乗車を合わせて楽しみたいと思います。