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そらうみ旅犬ものがたり

ドギーの岬めぐり。房総半島最南端へ「野島崎/千葉県南房総市」

ドギーと飼主は岬めぐりが大好きです。今回は遠く関東の房総半島の先端にやってきました。ドギーはもちろん飼主も初めて訪れる地ですが、ここには何があるのでしょうか。

房総半島最南端の地に到達したドギー。野島崎と高松、緯度は同じ34度です。

 

房総半島最南端・野島崎

千葉県の大部分を占める房総半島。「安國(あわのくに)」「上國(かずさのくに)」「下國(しもうさのくに)」の領域にまたがることが名称の由来。東京湾側を内房(うちぼう)、太平洋側を外房(そとぼう)と呼びます。

房総半島は南部(下)が上総、北部(上)が下総と上下逆になる点に注意が必要です。
これは京からの順路に由来する説があり、越前・越中・越後の並びや、越後國の中でも下が上越、上が下越となる事と同義です。東海道が整備されたのは江戸時代なので、昔は房総半島を訪れる場合は海から船で上陸するほうが容易だった気がします。なので順序で言えば先に現れる南が上ということでしょうね。

房総半島の先端部分は「安房國」ですが、こちらは四国徳島の旧國名「阿波」と関わりがあるようです。

安房は阿波に通じ、これは昔々房総半島へやってきた阿波忌部(いんべ)氏の一族が房総半島南部に居を構えたことに由来するようです。
彼らはこの地で様々な作物を植えましたが、特に麻の育ちが良かったためほどなくして麻の一大産地になり、麻の国。それが転じて総(ふさ)の国と呼ばれるようになりました。
また、その時代の関東平野は未開の地で、南関東全体が総の国だった説もあります。総上(ふさかみ)が転じて相模(さがみ)、総下(ふさしも)が転じて武蔵(むさし)とも。関東地方始まりの地は房総半島で、麻の栽培から広がっていったのかもしれませんね。

阿波最古の古民家と受け継がれてきた伝統

忌部氏の一族は大和國(現・奈良県)発祥で、古来から皇室に織物を献上していた一族。その技法は現代にも受け継がれていて、平成から令和への改元に際して執り行われた大嘗祭(だいしょうさい)では、儀式で着用される麻の衣「麁服(あらたえ)」が忌部氏の末裔によって献上されました。

 

野島埼灯台

野島崎散策のための駐車場は野島西港付近。右の赤や青の車が停まっている場所にあります。

ドギーと飼主が乗って来た自動車を駐車場に停めて、まずは灯台へ向かいます。

房総半島南端にある野島埼灯台の歴史は古く、初点灯は1870年1月22日(明治2年12月21日)。

観音埼…神奈川県横須賀市
野島埼…千葉県南房総市
樫野埼…和歌山県串本町
神子元島…静岡県下田市
剱埼…神奈川県三浦市
伊王島…長崎県長崎市
佐多岬…鹿児島県南大隅町
潮岬…和歌山県串本町

野島埼灯台は、安政の五カ国条約の追加条約にあたる江戸条約において、建造を約束した八つの灯台の一つです。

駐車場から灯台まで徒歩5分以内で来ることができます。灯台が大きくてドギーを一緒に写そうとすると、ただでさえちっちゃなドギーが本当に小さくなってしまいます。

野島埼灯台は公式的に内部見学が可能です。その制度を参観灯台と呼びますが、日本で現在16基ある参観灯台のうちの一つになります。

尻屋埼灯台…青森県東通村
入道埼灯台…秋田県男鹿市
塩屋埼灯台…福島県いわき市
犬吠埼灯台…千葉県銚子市
野島埼灯台…千葉県南房総市
観音埼灯台…神奈川県横須賀市
初島灯台…静岡県熱海市
御前埼灯台…静岡県御前崎市
安乗埼灯台…三重県志摩市
大王埼灯台…三重県志摩市
潮岬灯台…和歌山県串本町
出雲日御碕灯台…島根県出雲市
角島灯台…山口県下関市
都井岬灯台…宮崎県串間市
残波岬灯台…沖縄県読谷村
平安名埼灯台…沖縄県宮古島市

日本海に突き出た北緯40度の岬「入道崎/秋田県男鹿市」

入道埼灯台はドギーと行ったことがあります!

とは言えいずれの参観灯台も入館できるのは人間だけなので、飼主を含め灯台に登ったことはありません。

 

房総半島最南端おさんぽ

中央海の向こうに見えている陸地は伊豆大島の三原山。その左にはちょこっと利島が見えます。

野島埼灯台を後にして、と言っても灯台がある場所から西に出てきたのがこちら。ドギーのおさんぽには好適地です。

野島埼灯台と園地の位置関係。ドギーの奥に見える岩屋は、先の戦に敗れ当地に逃れた源頼朝がこちらの岩屋で雨風をしのいだ場所と伝わります。

父・源義朝が保元の乱・平治の乱に敗れ、伊豆國に流罪になった源頼朝。それから二十年あまりの月日が流れたある日、以仁王(もちひとおう、後白河天皇第三皇子)は諸国の源氏に平家打倒の挙兵を促します。頼朝もそれに応える事になりますが計画段階で挙兵の計画が発覚し、準備不十分のまま平家と戦うことになったのが石橋山の戦い。現在の神奈川県小田原市南部での出来事です。この時、源氏の軍勢は300騎に対して平氏の軍勢は3,000騎。到底叶う人数ではなく頼朝は箱根山中に敗走した後、船で安房國へ逃れます。そうして上陸したのがこの場所になります。
当時の東国武士は平氏の圧政に不満を持つ者が多く、また父・義朝が生前坂東において強い影響力を持っていたことも幸いして、安房國で態勢を整え平家打倒を目指す頼朝の軍勢は房総半島を進軍するうちに数万の兵力となり、坂東での覇権を確立したのち平氏を滅亡に追いやる勢力となりました。

野島崎は灯台イコール先端ではありません。園地を周遊する遊歩道が整備されていて、岬全体をぐるっとおさんぽすることが可能です。

この土地自体が元々は本州とは繋がっていない小島だったものが、元禄16年(1703)の元禄大地震で土地が隆起して陸続きになったそうです。土地の成り立ちは異なりますが、同じく条約灯台が置かれた潮岬と似た海に突き出た土地形状はそのためです。

前述の源頼朝が訪れたのはその地殻変動より前の時代なので、当時の岩屋は海面すれすれか満潮時には水没するような洞窟だったのではないでしょうか。
想像するにギリシアのスニオン岬のような。ポセイドン神殿があるスニオン岬の先端には罪を犯した者が入れられる岩牢があって、満潮になるとその殆どが水没するという極刑が課される場所。聖闘士星矢の話の中で、双子座の弟カノンが兄サガによってその岩牢に幽閉され、そこで生死の境を彷徨ったのち海神ポセイドンに救われた話を思い出しました。
それと頼朝の体験はちょっと違いますが、ここが小島だった時代の岩屋はそんなロケーションだったと思います。詳しくは聖闘士星矢のポセイドン編をご覧ください。

野島崎の北緯34度90分は京都駅が同じくらいの緯度でした。

野島崎…北緯34度90分
そらうみ…北緯34度28分

野島崎とだんらん旅人宿そらうみがある高松市。緯度が同じ34度なので同じくらいの高さにあるのかなあと思いましたが、同じ34度でも60分近うとほぼ同じ高さとは言えなかったです。

日本海側と太平洋側では、私にとっては同じ距離でも旅をするにあたり心理的な距離が存在します。前者は旅がしやすいのですが、後者はなかなか行こうとはなりません。それは交通量や人口密度によるものです。なのでドギーはもちろん飼主にとっても、房総半島先端に来ることができたのは、やっとの事でした。

今回訪れた場所

野島埼灯台

日程

令和7年(2025)1月


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