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そらうみ旅犬ものがたり

旅情満点の陸奥路への玄関口「白河の関/福島県白河市」

ドギーと飼主はこれまで何度も東北地方を旅させて頂いていますが、ここを通ってのみちのく入りの旅情は格別のものがあります。かつて白河の関が置かれていた地をドギーとおさんぽしました。

昔も今も陸奥入りを表現するときに登場する白河の関。松尾芭蕉のおくのほそ道でも、この場所に立つことは大きな目標であったようです。

 

白河関跡

広大な東北地方。いつ訪れてもその広さに驚きます。その広大な土地への入口の一つがこちら白河の関。

ドギーと飼主は日本一小さい香川県に住んでいるので特にそう感じるのでしょうが、

②岩手県…15,280 km²
③福島県…13,780 km²
⑥秋田県…11,610 km²
⑧青森県…9,606 km²
⑨山形県…9,325 km²
⑯宮城県…7,286 km²

㊼香川県…1,877 km²
四国全体…18,800 km²
日本全体…378,000 km²

数値で見ると東北6県の県土の広さが一目瞭然です。

しばしば白河が東北地方の入口のように語られますが、そこは高校野球が有名にした部分が大きいかもしれません。実際には東北南部の福島県と山形県が北関東や新潟県に接しているので、東北への入口はたくさんあります。中でも有名なのが、

「鼠ヶ関(ねずがせき・新潟/山形)」
「白河関(しらかわのせき・栃木/福島)」
「勿来関(なこそのせき・茨城/福島)」

これらを奥州三関と呼びます。

古代日本に興った大和朝廷。時代と共に強大化していくにつれ、領地は東国へと拡大していきます。しかしながらその大和政権に従わない北方の人間がいました。その人々を蝦夷(えみし)と呼びました。

いつだって誰だって自分たちの主権が脅かす存在には抵抗を示すもの。それが朝廷がある奈良や京都から近い地域であれば、たちまちその権力に征服されてしまうところ。ですがなかなか従属しないと言っても東北は都から遠く離れた地域であるため、すぐに征服することができなかった事情がありそうです。歴史上初めてその成果を見たのが坂上田村麻呂の蝦夷討伐です。歴史の授業で習う征夷大将軍。9世紀初めの出来事です。

通常「●●関」と言えば往来手形等を確認する関所を思い浮かべますが、それは江戸時代のイメージ。白河関はそれよりずっと前に設けられたもので、朝廷の勢力が北進していくにつれ蝦夷らに対抗する前線基地が必要になり築いたもの。機能的には城柵や砦が近い存在ではないかと思います。ゆえに蝦夷討伐以降の白河関は軍事的役割が薄れ、「白河の関を越えると東北地方に入る」のような旅情や感傷を表す文言として世に紹介されるようになった感があります。

関所跡と言うよりは奥州路の入口という演出と、おくのほそ道で当地を訪れた松尾芭蕉がテーマになっています。

かつての白河の関は今日、白河神社と白河関の森公園として整備されていて、気軽に立ち寄れるスポットになっています。

 

おくのほそ道のターニングポイント

白河神社へはドギーが入れないので、早々に神社からの道をたどって公園にやってきました。

中央右の森が白川神社の社地。ほぼ中央にある赤い屋根が白河ラーメンを提供するやたべさん。後で行きます。

松尾芭蕉とおくのほそ道に同行した門下生の河合曾良。1689年(元禄2年)の旅人たちと、2025年(令和7年)の旅犬。

*心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。
(最初は旅といっても実感がわかない日々が続いたが、白河の関にかかる頃になってようやく旅の途上にあるという実感が湧いてきた。)

おく
=陸奥(みちのく)の略称、別称
陸奥(みちのく)
=広義的な意味としては東北地方。主として現在の東北地方東半分

ここ白河の関に差し掛かった松尾芭蕉はこのように書き記しています。旅のタイトルに「おくのほそ道」、すなわち東北紀行である事を表してしているあたり、芭蕉にとって東北地方の入口である白河関を越えることは特別な位置付けだった様子。

*都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

芭蕉が尊敬していた俳人の一人である能因法師(988-1050)が詠んだ歌。西暦1000年頃。日本は平安時代ですが、その頃すでに関所の役目が薄れ「白河の関」は旅情を表現する文言になっていたことが分かります。芭蕉もまた現代人の我々と同様「白河の関」の響きに憧れていたようですね。

 

*月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
(月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。)

の一文で始まるおくのほそ道の序章の中に、

*やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、
(しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと白河の関を越してみたくなり、)

とあります。陸奥への旅に出た目的の一つに白河の関を越えることがあったようです。それゆえ当地に到達したことは、メンタル面で大きなターニングポイントなったと言えそうです。

芭蕉と曾良が乗っている岩にも刻まれているこちらの句。厳密には白河の関で詠んだものではありません。

すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかゞしう思ひめぐらさず。
(須賀川の宿場町で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(=どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」

と次章で書き記しております。

*風流の初やおくの田植えうた
(白河の関を越えて奥州路に入ると、田植え真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。その響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった)

無下にこえんもさすがに」
(何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」)

のようなストーリーです。
白河で言葉が出てこないほどの感銘を受けて、そこから須賀川への道中で遅れて句が出て来たわけですね。白河から須賀川は現代の距離で40km弱あります。

芭蕉の紀行文で感激のあまり句が出てこない場面は、たびたび登場します。

*松島やああ松島や松島や

こちらは季語が入っていないので俳句ではないという論評と、松島のあまりの絶景に感激して言葉が出なかった芭蕉に代わって、その心情を後年別の人物が詠んだものとも。
松尾芭蕉がおくのほそ道を歩いたのは、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)から8月21日(新暦10月4日)。今ほど猛暑ではないにしても春に出発してがっつり盛夏を歩く2,400km150日の長旅。平均すると一日約16kmのペースになるので、盛夏を歩くことと合わせてかなりの体力おばけであったと言えますが、時々このようなエピソードがあるのはノンフィクション感があって、個人的におくのほそ道の好きな部分です。

*卯の花をかざしに籍の晴着かな

こちらは同行者の河合曾良が詠んだもの。句が出てこなかった芭蕉に代わって、の意味があったのかもしれません。
陸奥守竹田大夫国行(むつのかみたけだのだいふくにゆき)という人物が白河の関を越える際、能因法師の歌に感激して正装に着替えて越えたという故事は聞き及んでいますが、私たちにそれはできないのでせめて卯の花をかざして晴れ着とさせてください。のような意味です。
卯の花はウツギ科の花で、旧暦四月の「卯月」はその花が咲くころに由来します。日本ではおおよそ5月頃。冷涼な東北であれば6月でも見れる花かもしれません。ちなみに食べ物のおからを卯の花と呼ぶ場合がありますが、これはおからのふわっと盛り上がった感じが卯の花が咲く様子から例えられたものです。

 

現代の白河の関が紹介されるシーン

東西境目に芭蕉も通った歴史の道

田んぼに浮かぶ島々。旅犬が訪ねる俳人の聖地・前編

雪に覆われた兵共が夢の跡<高館義経堂/岩手県平泉町>

日本海と太平洋の境目にある駅<堺田駅/山形県最上町>

ドギーと旅をしていると松尾芭蕉ゆかりの場所によく行き当たります。過去にこのような芭蕉ゆかりの土地を旅したことがあります。

 

現代の白河の関が紹介されるシーン

こちらは白河神社の社務所で、境内ではなく県道沿いにあります。仙台育英高校が白河の関越えを達成した時は、記念朱印が授与されたそうです。

春夏になるとしばしば聞かれる「白河の関」。なんとなく聞いたことがある方は多いと思います。高校野球の日程が進んで東北六県の代表チームが勝ちあがっている時に、白河の関を越えるかどうかの文言が登場します。

起源は高校野球選手権大会(夏の甲子園)において東北の代表チームが優勝できないジンクスにありました。大会に優勝すると大真紅旗が授与されるわけですが、それがいまだかつて白河の関を越えて東北地方へ持ち帰られたことが無い、と。
もちろん惜しい時はありました。そもそも大正4年(1915)の第1回大会では秋田中学校(秋田)が決勝戦に勝ち進みますが京都第二中学校(京都)に敗れたことで、このエピソードが始まっています。
名勝負と名高い昭和44年(1969)の第51回大会決勝では、三沢高校(青森)と松山商業(愛媛)が戦い決着が付かず引き分け再試合。翌日三沢高校は敗れました。
他でも東北のチームは決勝に進むものの準優勝止まり。例外として平成16年(2004)第86回大会で駒大苫小牧(北海道)が優勝。大真紅旗が白河の関を越えた、と紹介されることもありましたが、これは飛び越えていったものとして「白河の関越え」の悲願は継続していました。

そして迎えた令和4年(2022)の第104回大会。決勝戦に勝ち進んだ仙台育英(宮城)が下関国際(山口)を8-1で下し、100年を超す悲願になっていた大真紅旗の白河の関越えが達成されました。

なお、夏の大真紅旗に対して春は「大紫紺旗(だいしこんき)」と呼ばれますが、そちらはまだ白河関を越えたことはありません。とは言え大紫紺旗が白河の関を越えるかどうか!?のような紹介のされ方はこれまで聞いたことがないので、あくまで1県1校出場する夏の大会でのお話なんでしょうね。個人的には大紫紺旗の白河関越えも期待しています。

 

白河の関グルメ「白河ラーメン」

福島県白河市はラーメンが有名で、人口約50,000人の街にラーメン店が100店余りあるという、なかなかのラーメン王国です。

お腹が空きました。ランチの時間です。目星をつけていたのはこちら「やたべ」さん。やたべさんは白河神社と白河関の森公園の道路挟んだ反対側にあるので、白河の関観光と合わせて楽しむことができます。
私が到着した時はまだ営業時間前だったので、先に神社と公園を楽しみました。が、こちらをご覧頂いてやたべさんに行こうと思った方はそれはやめたほうが良いです。
結果的に私は待つことなくラーメンを食べることができましたが、普段は大行列に並ぶか、朝一度名前を書きに来て昼前に再び訪問。と言う病院方式でやっとスムーズにラーメンにありつけると、お友達のラーメンマニアさんが言ってました。そんなことも何も考えず、入店を待つことなく着席できたのは奇跡だったようです。

メニューはこんな感じ。どのラーメンも非常に魅力的。白河の関まではなかなか来る事ができないので、いちメニューだけで終わらせたくない気持ちが生まれます。

この後、白河ラーメンはしごであってもなくても、これから先道中で何か美味しそうなものを発見したときに、お腹いっぱいで食べられないとそれは悔しいでしょうから、大盛にはせず。これは旅中のランチのコツだと思っています。
それがディナーであれば、次に空いている店を探すのが大変でしょうから、そこでお腹いっぱいにしたほうが良いと思っています。なんなら夜は食べるもの食べて早く飲みたい。

鶏ガラの煮物。入店したら他のお客さんたちが一様にこちらの煮物を召し上がられていました。

おお、これが白河ラーメンの文化かと思い自分もオーダーしようと思っていたのですが、定員さんがお水持って注文を取りに来てくれたときに、向こう様からこちらを持ってきてくださいました。

なんとこちらサービス品。

白河ラーメンは鶏出汁醤油スープが特徴のようですが、その出汁殻に改めて味つけしたものがこちら。確かに身も骨もそのままで出てきて、骨を除けながら食べる必要があるのですが、風味ちゃんとあります!

せっかくの鶏ガラ、食べにくくはあるけれど鶏ガラも頂いた生命。できるだけ食べ切ろうとラーメン前に悪戦苦闘しました。

やがて手打中華が提供されたわけですけど、ラーメンの味も間違いありません。とても美味しかったのですが、印象としては鶏ガラをほじくっていたほうが鮮明に覚えています。旅の思い出ってそこでしか食べれないもの、その土地オリジナルの体験が極上だと思っているので、やたべさんでのランチはとても思い出深い経験になりました。

東北や新潟へ来ると、こちらではあまり見かけない太いちぢれ麺が提供されることが多いように感じているのですが、私にとってはそれが食べ応えがあって良いです。もちろんお店によることですが、女性や少食の方は通常のラーメン並一杯より多いと思っておいたほうが良いかもしれません。

今回訪れた場所

奥州白河の関跡

日程

令和7年(2025)1月


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