明治維新を興した我が国は様々な改革に着手しましたが、交通の面においては鉄道の整備を急ぎました。とりわけ太平洋-日本海を陸路で接続することは最重要に位置づけていたようです。

鉄道黎明期に急峻な峠に挑んだ遺構
東京(=首都)を起点とする鉄道が最初に日本海側の都市である敦賀へ到達を果たしたのが明治16年(1883)5月。これは日本第一の幹線である東海道本線・新橋-神戸が全通した明治22年(1889)7月よりも早い。
東京-敦賀…明治16年(1883)5月
東京-神戸…明治22年(1889)7月
東京-新潟…明治26年(1893)4月 ※当動画
東京から最も近い日本海側の都市・新潟へは今でこそ上越新幹線。在来線は上越線が長いトンネルで山脈を貫いていますが、明治初期の土木技術でそれは不可能。途中までは旧中山道に沿う形で長野を経由するルートで鉄道が敷設されることになりますが、そこに立ちはだかったのが碓氷峠(うすいとうげ)でした。
アプト式

土木技術面の未発達もさることながら、鉄道を敷いたところでその坂を登ることができる高出力の機関車が当時は存在しません。そこでドイツの山岳鉄道を参考に採用されたのがアプト式の鉄道でした。アプト式とはラックレールと呼ばれる歯車をかみ合わせることで摩擦を生み急勾配を登るもの。この方法により信越本線の中で最後まで未開通のまま残されていた碓氷峠区間を含む信越本線は全通。東京と新潟が鉄道で接続されました。
最大の工事になったのがこちら碓氷第三橋梁で、用いた煉瓦は二百万個と言われます。地震対策として石柱を組み合わせるなど当時の技術の粋が費やされたといっても過言ではない大工事だったようです。
二代目碓氷峠越え路線

しかしながら当区間の近代輸送はそれで解決をみたわけではありません。信越本線の中で碓氷峠の区間だけはふもとの横川駅で専用の機関車への付け替えやアプト式走行による低速度運転がスピードアップを阻んでいました。
昭和38年(1963)7月に新線に切り替えられ旧来の路線は廃止され、上野からの特急あさまなどが直通運転を行うことができるようになります。ただしそれも横川-軽井沢の間は坂がきつ過ぎて列車は自力で走ることができず、列車後方に機関車を増結して後方から押し上げる形で運行されていました。アプト式ほどではないにしろ横川駅で待ち時間があるのは変わりません。
けれどそれは悪い面だけではなく、横川駅を語る上で外せない話題に名物駅弁「峠の釜めし」があります。横川駅に列車がやってくると機関車を繋ぐ作業の間の停車時間に弁当売りがやってきて、それはそれは釜めしが飛ぶように売れたそうです。今日おぎのやの峠の釜めしと言えば日本を代表する駅弁。碓氷峠の負の面をプラスに変えた峠の生き証人です。
平成9年(1997)10月1日、長野新幹線(現・北陸新幹線)が開通。碓氷峠の鉄道史において初めて補助機関車等をつけず直通運転が可能になり大幅なスピードアップが実現した反面、在来線である信越本線の一部区間が廃止になり峠から鉄道の姿が消えることになりました(新幹線は別ルートをトンネルで通過)。
遊歩道アプトの道

現在旧旧線となった碓氷第三橋梁は「めがね橋」の愛称で親しまれ、横川駅から途中の熊ノ平信号所まで遊歩道として整備され散策を楽しむことができます。めがね橋から谷間を眺めると旧線となった二代目の鉄道線を見ることもできます。この区間は車道においても国道18号→碓氷バイパス→上信越道と変遷してきた場所。その時代時代で最新の土木技術が惜しげもなく投じられてきたことは、碓氷峠を含む信越路の重要性を物語る証左となっています。
アプトの道のおさんぽ

アプト式鉄道現役時代は真っ暗な中をがちゃがちゃとアプト音が響いていたのでしょうが、今は電灯があって歩くのには問題ない明るさ。静かな隧道内。碓氷第三橋梁と同様こちらのトンネルにも煉瓦が数多く使用されていて、こちらはその空間も見どころの一つになっています。