太平の世が長く続いた徳川幕府下において鎮圧に数か月を要した一揆があります。
江戸時代最大の武装蜂起が起きた地
元々はこの地を治めていた戦国大名の有馬氏によって築城され、洗礼を受けてキリシタン大名となったことで知られる有馬晴信(1567-1612)が居城としたこともある。大坂夏の陣の後、一国一城令(1615)によってこの城を放棄して島原に城を築くことになり、地域の拠点がそちらへ移ります。
その築城費用に充てるための重い年貢負担や普請工事、大名が有馬氏から松倉氏へ変わって更に苛烈を増すキリシタン弾圧など様々な不満分子が蓄積されていき、領民の武装蜂起へと繋がっていきます。
乱の当初は一揆軍が各地で勝利を収めて行ったが島原城を落とすことはできず、やがて天草から合流した軍勢と原城へ籠城。徐々に軍勢を整えつつある幕府軍の総攻撃を3度防衛に成功しますが、やがて食糧・弾薬共に底をつき落城。幕府軍に内通していた唯一人の人物を除いて老人や女子供例外なく皆殺しにされ、原城が再び一揆の拠点として用いられないよう徹底的に破壊しその敷地に虐殺した敷地内に埋められました。
後年の原城発掘調査では相当数の人骨や副葬品であるロザリオ等が発掘されています。
島原の乱後の世界と太平の世
結果的に江戸時代最大となった一揆の責任を追及される形で藩主の松倉勝家(1597-1638)は斬首。二百年以上に及ぶ徳川幕府下において大名最期の名誉である切腹も許されず斬首刑に処されたのはこのただ一件であることから、事の重大さを窺い知ることができます。
島原の乱以後、ポルトガル商人を国外追放の上キリスト教の禁教を強化。棄教しないキリシタンは潜伏キリシタン(カクレキリシタン)となり日本独自の信仰の形が誕生することになります。 また日本人が外国へ行くことも帰ってくることも禁止。鎖国体制が完成します。 そして全住民が地域の仏教寺院へ登録されることとなった。このことは現代に続く檀家制度の始まりと言えます。
当時の社会に大きな影響を与えた島原の乱ですが、乱以降禁門の変(蛤御門の変、1864)までの約230年間は大規模な内戦は記録されていません。このことは諸外国の歴史を見渡しても例がないような長期間に亘る平和な世が続いたことになります。