平成29年7月九州北部豪雨によって被災運休になっている日田彦山線。復旧に向けて運行会社であるJR九州と沿線自治体と折り合いが付かず、今も運休・バス代行輸送になったまま。鉄道の早期復旧は難しそうです。現在運休になっている添田-夜明の間にある一風変わった名前の踏切をドギーと訪ねました。
踏切前後のロケーション
日田彦山線(ひたひこさんせん)の彦山駅(ひこさんえき)から約1km夜明・日田方面に進んだところにある車両通行不可、遮断機・警報機無しの第四種踏切。運行本数が少ないローカル線でよく見かける形態の踏切です。
彦山(ひこさん)-筑前岩屋(ちくぜんいわや)
の間。登り坂の先には全長4,379mの釈迦岳トンネルが待ち構えます。その長さは建造当初九州内の鉄道トンネル最長を誇りました。
釈迦岳トンネルを出た列車は下り坂を走りながらこちらの踏切を駆け抜け、その先にある山の切り通し部分を通り抜けて彦山駅に到着。
現在切通になっている部分が今回の主役です。
二又トンネル爆発事故
この第四種踏切には「爆発踏切」という、なかなか物騒な名前がついています。
時は終戦直後、昭和20年11月12日。大日本帝国陸軍が当地(二又トンネル内)に隠していた火薬を連合国軍が確認。トンネル内で焼却処理を行おうとしたところ大爆発を起こし、トンネルはもちろん山全体が吹き飛び多数の死傷者が発生した。こちらの踏切の名称はそのことにちなむ名称です。
現在は線路を挟んで左右の山の間を割った切通の構造となっていますが、昔は山が繋がっていてその直下を二又トンネルが貫通していました。
ただし、鉄道路線としては先の釈迦岳トンネル(4,379m)の工事が戦争激化により中断されていたため、二又トンネルは事故当時未開通。トンネル工事は完成していたものの運用されていなかった。そこに目を付けたのが小倉にあった帝国陸軍。前年の空襲により火薬庫が焼失していた(現山田緑地)。新たな保管場所を探している時に鉄道が走っていなかった二又トンネル保管案が浮上。調査の結果適切な地下火薬庫と判断され運用された。
戦後、連合国軍に火薬が引き渡され試験点火したところ爆発しなかったことから、焼却処分を行っても危険性が無いと判断。昭和20年(1945)11月12日15時。地元警察署の警官数人同行の下、火薬への点火が行われた。連合国軍兵士たちは着火後に火薬へ引火する様子を見学していたが、約30分後に問題無しと判断。警察官たちに後を託して基地へ引き上げた。
それから1時間、状況は一変。火が付いた火薬はトンネル口から火炎放射器のように噴き出して近くの民家を焼いた。
17時20分、ついに火薬が大爆発を起こしてトンネルはもちろん山ごと吹き飛び、その炎や爆風、巻き上げられた土砂や倒壊物などの落下により担当警察官や地元住民合わせて死者147名・負傷者149名を出す大惨事となった。
爆発事故現場の最寄り駅
旧二又トンネルから約500m北に位置する彦山駅(ひこさんえき)。開業は昭和17年8月。信仰登山で賑わう英彦山(ひこさん、1,199m)の玄関口となる駅です。
英彦山神宮(ひこさんじんぐう)を模した木製の赤い柱がプラットホームを覆う屋根を支えます。
爆発事故現場から500mほどの至近距離に位置する彦山駅は、飛んできた岩石等によって屋根等を損傷。駅舎中破の被害を受けました。改修されていない部分には、今でもその痕が残されているとの事。曇天の夕方時間に訪れたのでその箇所を発見することはできませんでした。
駅から爆発事故があった二又トンネルはこの距離感。プラットホームから眺めるとこの通り、おそらく山はこんな感じで存在していたことでしょう。何も知らなければ「ああ、鉄道は山と山の間を通り抜けているんだな」というくらいですが、史実を知ると山を崩して切り通しにするほど小規模な山ではありませんし、谷間に単独峰(右の山)が存在することが不自然であることがわかります。
厳しい状況下にある日田彦山線
彦山駅を含む区間は豪雨災害によって被災。運休期間は既に2年を経過しました。
多額の費用を投じて鉄道を復旧させたとしても、被災前から乗車人員が少なかった閑散区間。赤字は間違いなく復旧させるのであればJR九州は沿線自治体に復旧工事費用や、その後鉄道を維持するための負担を求めているため、その交渉が難航しています。
日田彦山線線の将来が今後がどうなるのか。旅人として鉄道ファンとして、行く末を見守りたいと思います。
→令和2年(2020)、被災区間のBRT(bus rapid transit)転換が決定しました。