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そらうみ旅犬ものがたり

本州最北端の岬さんぽ・前編<大間崎/青森県大間町>

ここは東北青森、下北半島先端の大間崎(おおまざき)。海峡の向かうに見えている陸地は北の大地・北海道です。旅人なら一度は憧れる本州最北端の岬を、日本一周旅犬ドギーと訪れました。

本州最北端に到達したドギーと飼主

 

特徴的な半島が二つ。青森県

青森県の両半島位置関係

本州最北に位置する青森県。県内の主な都市として県都・青森市や古くからの城下町である弘前市。漁業基地として賑わう八戸市などがあります。本州最北端の岬は東側(右)の下北半島。金太郎さんが担いでいる鉞(まさかり)の形状に似た本州最北の巨大な半島が、大間崎のある下北半島です。

 

本州最●端あれこれ

見えているのは函館市東部の亀田半島

場所柄天気が良い日には海の向こうに北海道が見える。さすが北の端っこ。岬周辺の整備された区画に、それぞれの端っこが記されています。

津軽海峡が最も狭まった部分

北海道汐首岬(しおくびみさき)と青森県大間崎が対峙する津軽海峡の最狭部は17.5km。東京駅から川崎駅までの距離とほぼ同じです。

南北に比べてマイナーな西と東の端っこ

最東端…魹ヶ埼(とどがさき・岩手県宮古市)
最西端…毘沙ノ鼻(びしゃのはな・山口県下関市)
最南端…潮岬(しのみさき・和歌山県串本町)
最北端…大間崎(おおまざき・青森県大間町)

本州に限定すると南北以外の端っこの無名な事。

最西端の毘沙ノ鼻は近くを何度も通ったことあるはずなのに、知らなかった&気付かなかった。

最東端に至っては「魹ヶ埼?なんて読むの?」レベル。※とどがさき
こちらは徒歩か海から漁船でしか到達できない秘境の岬。自動車が入ることができる最奥地点から遊歩道を歩くこと片道1時間かかるそうです。クマは出ないだろうか。

対になる岬としてか毘沙ノ鼻がある下関市のホームーページには、ご丁寧に最東端・魹ヶ埼へのアクセスが掲載されています。

 

津軽海峡の守り神を祀る島と灯台

灯台下の赤い祠は弁天社

大間崎到達の楽しみの一つに海峡を隔てて眺めることができる景色の数々がありますが、ここでは晴れた日の写真がプリントされていて天気が良い日には実際の風景と照らし合わせて見ることができます。

弁天島にある大間崎灯台

大間崎に初めて燈台の火が灯ったのが大正9年(1920)9月。翌10月1日に日本で初の国勢調査が実施されています。

その後第二次世界大戦時には空襲、戦後には十勝沖地震に遭い倒壊。現在の灯台は2代目で昭和28年(1953)7月に再建されたもの。島は野鳥の宝庫として知られ島には弁財天(べんざいてん)が祀られている。

弁財天、べんてんさん

手に楽器の琵琶を持つ姿から芸能上達の神さまとして信仰を集める一方、発祥の地・インドでは元来河を司る神であることからそれが転じて水の神さまとして島や港湾に祀られることが多い。

琵琶湖竹生島(ちくぶしま)…宝厳寺(ほうごんじ)
広島厳島(いつくしま)…大願寺(だいがんじ)
湘南江ノ島…江島神社(えのしまじんじゃ)

この三体は日本三大弁財天として有名な存在。

津軽海峡の安全は古くから大間崎弁天島の弁財天が見守ってきたことがわかります。

 

函館の活火山と幻の青函ルート

活火山・恵山

東側(右)の亀田半島先端近くに目をやると頂上付近に草木が生えず地肌が見えているお山があります。

戦前に計画された青函トンネルはこの場所だった

掲示されている写真だと分かり易い。渡島(おしま)エリアに存在する活火山の一つ・恵山(えさん)です。火山が形成した荒涼とした地形は、青森側の下北半島では恐山(おそれざん)があまりにも有名ですが、似た風景を津軽海峡を隔てた北海道側でも見ることができます。

本州(青森)と北海道を連絡する青函トンネルは、

〇松前半島-津軽半島
×亀田半島-下北半島

下北半島を経由しませんが、戦前は距離の近さから東側の下北ルートが計画されていた時期がありました。

亀田半島(北海道)…戸井線
下北半島(青森)…大間線

トンネル建設はともかく、既に置かれていた津軽要塞への軍需輸送を行う必要があったため、両半島とも鉄道建設が進められましたが、共に列車は走ることが無く戦争の激化によって建設は中止。戦後工事が再開されることはありませんでした。

現在、両者の遺構はどちらも国道に沿って見ることができます。けれど戦時急造品のため技術的に未熟な人夫の作業によって造られた可能性や、物資不足のため質の悪いコンクリートが使われていることも相まって年々危険を伴う建造物となっています。

 

軍事要塞化された歴史を持つ函館山

函館山と函館市街地

大間からは函館も近い。

函館山と、よーく目を凝らすと五稜郭タワーが見える

西(左)に突き出たような島は、山上から世界三大夜景を見ることが出来る「函館山」

この角度から見ると島に見えます。元々は北海道本土から離れた島でした。島の裏側(北)へ両側から打ち寄せる波が運んだ砂が堆積して北海道と繋がった陸繋島(りくけいじま)。国内では福岡の志賀島と形成の過程が同じです。そのくびれた砂州上に函館の港町が造られていったたため、両側が海(=暗い)の特徴的な夜景となりました。

函館山自体は、日露戦争が差し迫った明治31年(1898)から帝国陸軍の手によって建設が始められ、明治35年(1902)に完成した軍事要塞。今でこそ美しい夜景を眺める観光地となっていますが、函館要塞として完成してから終戦を迎えるまでは山全体が軍事機密となり、戦時改描が加えられ地図から姿を消した。民間人の入山はもちろん写真撮影・スケッチ・話題に出すことさえ禁じられた歴史があります。

昭和に入ってからは守備範囲が津軽海峡全体に拡大。青森県西の半島である竜飛岬(たっぴみさき)や東の半島・大間崎に砲台が築かれ「津軽要塞」と改称された。それを以って当初は津軽海峡の封鎖に成功した形となったが、時代が進んで航空機の時代になると要塞としての機能は低下。第二次世界大戦時には水面下で連合国軍の潜水艦が頻繁に通過していたし、艦載機は頻繁に飛来し青函連絡船などにも攻撃を加え大きな被害が出た。

大戦後、要塞の再利用を警戒したアメリカ軍によって函館山を含む津軽要塞は爆破処理となったが、函館山は函館市によっていち早く公園として整備され世界三大夜景と称賛される礎となった。現在も函館山へ登ると至る所にかつて軍事要塞だった遺構を見ることができますが、人々が観光目的で函館山を訪れる時間帯は主に夜。暗い時間で殆ど目に入らないことがありあまり話題に上がりません。

 

津軽海峡の戦災

豊国丸(ほうこくまる)遭難事件

津軽海峡は関門海峡と並んで日本海と太平洋を繋ぐ航路として非常に重要な水路。

ここで発生した戦災と言えば12隻保有していた青函連絡船のうち12隻が全てが撃沈、または大破の被害を受けた昭和20年7月14日・15日の北海道空襲が著名ですが、同じ日に海軍に徴用された民間船が大間沖で米軍艦載機の攻撃を受けて沈没する事件が発生しています。

豊国丸は不足する船舶を民間から補った戦時徴用船だった

帝国海軍特務感(ていこくかいぐんとくむかん)

と言えば聞こえは良いですが、実態は軍部で不足していた船舶を補うために民間の船舶を借り上げて、兵員や物資の運搬など軍務に就かせていたいわゆる「戦時徴用船」。直接戦闘に関わるケースは多くは無かったものの徴用船の多くは改造が行われ機関銃などの武装が行われました。

 

豊国丸の主な任務は、北海道から横浜の石炭輸送。

昭和20年7月13日、宮城県塩釜港を出港して北上していた豊国丸。

翌14日朝。八戸港に仮泊した際に八戸飛行場が米軍艦載機から爆撃を受けているのを目にして全速力(12.5ノット=約23km/h)で出港。直ちに武装を整え対空戦闘を開始したが、午前中のうちに乗務員の半数以上が死傷した。

満身創痍の状態となって津軽海峡・大間崎沖を航行していたが、運悪く函館市街の爆撃を終えた米軍艦載機に発見され攻撃を受ける。先の戦闘で既に豊国丸は乗務員の多くを失い弾薬が尽きた状態。なすすべもなく一方的に攻撃を受けた豊国丸は午後2時36分沈没した。

沈没時に50名ほどの生存者が居たというがその多くは強い海流に流される等行方がわからなくなり、大畑の海岸に漂着するなど生存が確認されたのは12名。乗員約150名のうち9割を失う大惨事となった。

忠霊碑に刻まれた戦没者名簿

戦没者のお名前を眺めていると、艦長である渡部成己少佐(=豊国丸航行中の最高責任者)が愛媛県出身であることがわかります。

「わたなべ」さん。確かに愛媛県に多い姓です。「渡部」単体ではベスト5圏内ですが「渡辺」と合わせると、読みでは愛媛県で最も多い名字になります。

豊国丸が眠る津軽海峡大間崎沖

豊国丸は米軍艦載機の攻撃により無線室が破壊されていたため陸上と交信することができず、戦闘の様子や詳細な沈没地点は明らかになっていない。今も大間崎沖のどこかに艦と運命を共にした英霊が眠っています。

 

続き

本州最北端の岬さんぽ・後編

今回訪れた場所

大間崎(おおまざき)

日程

平成30年(2018)6月


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