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2020-02-05

戦時中、赤十字標章を付けた列車が狙われた事件<大山口列車空襲/鳥取県大山町>


大山口列車空襲慰霊の碑を、旅犬ドギーと慰問

今から75年前、終戦間際の昭和20年(1945)7月。この地で赤十字標章を掲げた非武装の列車が米軍艦載機に空襲を受ける、大変痛ましい銃撃事件が発生しました。
戦時中に敵機に攻撃された列車はいくつもありますが、大山口における列車空襲の被害は中央本線で起きた「湯の花(いのはな)トンネル列車空襲」に次ぐ大きな被害として記録されています。

大山口列車空襲

大山口列車空襲慰霊の碑(鳥取県大山町)

現場となった大山口駅の隅に、その事件を後世に伝え祈りを捧げるための慰霊碑があります。

列車空襲事件のあらまし

昭和20年(1945)7月28日午前8時頃。鳥取発出雲今市(いずもいまいち、現:出雲市駅)行きの列車が、この地で米軍艦載機の銃撃を受けました。

列車は蒸気機関車(SL)が牽引する11両編成。前方二両は車体に赤十字標章が大きく描かれた病客車で、傷病者と付き添いの看護師らが同乗。他の車両には勤労学徒、軍需工場の通勤者、一般乗客など総勢1,200名の超満員列車が大山口駅にやってきた。
戦時中の鉄道は軍事輸送が最優先で行われたことや、特に終戦間際は鉄道施設が空襲によって破壊されていた事などにより列車は定期運行を行うことができず、運良く乗車できたとしても超満員は当たり前の事でした。

空襲があった駅当方の切割区間

大勢の乗客を乗せたその列車が大山口駅に到着した際、上空に米軍艦載機の姿を確認。駅長の判断により列車は600mほど後退して列車を隠すことができる切割区間に一時退避した。
そうしているうちに敵機の姿が見えなくなったので列車は大山口駅へ戻り、全乗客3分の1にあたる400人の乗客が下車して避難させたが、再び艦載機が接近してきたため再度後退してさきほどの切割区間へ退避。この際に艦載機が飛来して列車に攻撃を加え、前方に牽引されていた病客車を中心に大きな被害が発生した。

供えられた千羽鶴となくなられた方々の名簿

死者44名・負傷者31名以上。切割区間のある上野集落も被災し、全半焼3軒という被害が出ました。

こちらの慰霊碑にはこの空襲で亡くなった方々の名前が刻まれると共に(氏名不詳二名)、近くの学校で折られた千羽鶴が供えられ、空襲事件によって犠牲になった方々の霊を慰めています。

 

列車空襲事件現場

空襲現場の切割

大山口駅から東(鳥取方向)へ約600m来たところ。上野集落にある切割区間へやってきました。

大山山麓は大昔の火山活動によって流れ出した溶岩が形成した扇状地になっており、土地のアップダウンが豊富。この場所も周囲より土地が少し高くなっているところで、山陰本線建設に際して土地を掘り下げ(=切割)線路を直線に敷設したもの。よって鉄道の敷地が周囲より少し低い位置にあります。

空襲現場となったコンクリート柱付近

切割区間から西方(米子方向)を眺めたところ。近年架けられた陸橋の向こうに大山口駅があります。

事件当日、列車はこの場所と駅との間を前後いったりきたりを繰り返している時に、米軍艦載機から攻撃を受けました。線路沿いにあるコンクリート柱にはその時の機銃掃射の痕が残されています。

空襲の痕が残るコンクリート柱

慰問に訪れたドギーと共に、事件現場になったコンクリート柱に立ってみました。コンクリート下部に目をやると、

弾痕が残る根元

コンクリートが白く補修された痕を見ることができますが、この部分が機銃掃射痕。

弾痕はコンクリート柱下部から中部の間に集中

史実では、

「退避していた列車が一度駅へ戻って乗客の3分の1を下ろして…」

これはおそらく列車自体の編成が11両もあったので全列車が切割区間に収まらない、いわゆる「頭隠して入り隠さず」状態だった事。

「前方に牽引されていた病客車に被害が集中して…」

大きく赤十字標章を掲げている車両は攻撃を受けないであろうとの目算があり、病客車の乗客は避難させなかったようですが、その目論見が外れた形になったと言えます。

いくら戦争でも赤十字標章を掲げた傷病者に攻撃を加える事。そもそも民間人を狙うこと自体、国際法違反であり戦争犯罪です。しかしながら日本は無条件降伏を受け入れた敗戦国。「戦争を早く終わらせるため」という名目で民間人への攻撃が正当化され、日本全国で行われた都市空襲等によって犠牲になった方やその遺族の方々の無念は、未だ晴らされていません。

足元側のコンクリート柱にも痕が見える

自分たちが立っている足元に目を向けると、北側(=向こう側)ではないにしろこちら側にも補修された弾痕をいくつか確認することができました。史実では、

「敵機は何度も旋回して列車に執拗に攻撃を加えた…」

とありますが両側にそれが残っているあたり間違いなさそうです。

また決して褒められたことではありませんが、切割区間に列車に退避している列車を攻撃するためには、斜めからというより真上から攻撃しなければならず、列車へ急降下攻撃を加えた米軍機パイロットの技術と度胸は大したもの。大戦末期において艦載機や銃弾など兵器のストックだけでなく、そのような攻撃を行うことができる敏腕パイロットが豊富に在籍して居た点でも、日本と米国の戦力差が大きかったことがわかります。

 

列車空襲事件、その後

切割区間は今も変わらず列車が駆け抜けます

この攻撃によって本務機関車が被害を受けたことにより全11両を牽引することができなくなったため、こちらに後方5両を留置して前方6両が大山口駅を約2時間遅れで発車。
しかしながら二駅先の伯耆大山駅(ほうきだいせんえき)で再び空襲の危険が迫ったので、交代して近くの山影に退避。そこで機関車は水が尽きたため動けなくなり救援車によって救出され、米子駅へは定刻より約3時間半遅れの午前11時20分にようやく到着することができました。

結果的に終戦まで約3週間というタイミング。命運を分けた列車空襲事件現場に立ち、平和の尊さをドギーと飼主は改めて実感することができました。

 

大山口列車空襲現場


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