南予(なんよ、愛媛県南部)にある3つの運河のうち唯一宇和島市街地より北にあり、最も歴史が古いのがこちらの奥南運河です。
江戸時代由来。参勤交代にも利用された運河
【奥南運河】
所在地:愛媛県宇和島市
竣工年:昭和2年(1927)
延長:400m
幅:20m
深さ:3m
参考(南予ほか二運河)
【細木運河】
所在地:愛媛県宇和島市
竣工年:昭和36年(1961)
延長:190m
幅員:20m
水深:3m
【船越運河】
所在地:愛媛県宇和島市・愛南町
竣工年:昭和41年(1966)
延長:200m
幅員:25m
水深:5m
奥南航路
入り組んだリアス式海岸が広がる愛媛県南予地方。細く伸びた半島が多く、そこに暮らす人々が反対側の海へ出るためには燃料代が必要になることははもちろん、岬の海況によっては大きな危険が伴います。そんな時に大きな助けとなるのが人の手で開削された運河でした。
奥南は「おくな」と読みます。
場所は宇和島市北部。平成の大合併前は北宇和郡吉田町だったこの場所。運河に架かる橋の歴史は古く大正15年(1926)には同名の橋があったことが記録されています。
奥南橋が架かる場所は延長約400mの水路上。これは自然の存在した水域に架かる橋ではなく奥南航路と呼ばれる人工的に開削された運河に架かる橋になります。運河の起源は江戸時代初期の寛永3年(1626)の堀切工事に由来します。南予に存在する三つの運河の中で最も古くから存在していることになります
参考
寛永年間(1624~1645)
寛永14年(1637)には島原の乱が発生、翌年鎮圧。宇和島藩においては伊達政宗(1567-1636)の長子である第一代藩主伊達秀宗(1591-1658)が治めていた時代。
奥南運河がある場所
奥南運河を通行することによって短縮できる距離は約8km。この場所から半島北部の法華津湾(ほけつわん)へ出るためには、半島の陸地に沿って左側へ時計回りに進み岬を回る必要がありました。
これすなわち参勤交代を含む宇和島城下から外海へ出るときの航路にあたり、今昔共にですが特に昔の櫓漕ぎなど非動力船の時代においては距離短縮の効果は大きく、季節風の影響や浅瀬に座礁する危険がある先端部を通らずに済むメリットは計り知れなかったようです。
それらの事情があって藩政時代という早い時期から開発が行われた奥南運河ですが、江戸時代に開削された奥南運河は干潮時に干潟が出現したり不安定なものだったようです。
大正時代に当地出身の山下亀三郎という人物の後援を経て、戦後奥南運河が国の開発保全航路に指定にされたことにより現在の姿になります。現在は定期的な浚渫(しゅんせつ)工事によって運河の維持管理が行われています。
浚渫(しゅんせつ)…水域の底面を浚(さら)って、土砂などを取り除く工事
宇和島市街との位置関係
少し離れた場所に建物が立ち並ぶ街が見えますがあちらが宇和島市街。伊達家ゆかりの城下町で奥南運河は参勤交代の道(航路)としても利用されたことが記録されています。
右の大きな山は九島(くしま)。平成28年(2016)4月、全長468mの九島大橋の完成によって四国本土と繋がりました。九島は宇和島湾内、市街地の向かいに立ちはだかる形で位置。これによって冬に吹く西からの季節風を遮り、自然の要害として宇和島城下を守っています。