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2020-11-11

九州最東端の岬で見ることができる要塞跡・中編<鶴御崎/大分県佐伯市>


九州で一番早く朝日が昇る岬は、かつて国防の最前線現場でした。改めてそれらの遺構を探索していきたいと思います。

鶴御崎灯台と並ぶ形で残されている旧海軍望楼

 

鶴御崎要塞

鶴御崎自然公園内に設置されている看板

こちらの案内板にはきらびやかな観光要素は記されていません。かつてこの地に存在した軍事要塞の配置図が記されています。

豊後水道に突き出る鶴御崎は、太平洋から瀬戸内海への通り道にあたる海域。その瀬戸内海に何があるかと言えば、

「呉軍港」
戦艦大和が誕生した地であり名だたる戦艦が呉を拠点にするなど、世界最大の軍港が瀬戸内海に存在しました。同時に廣嶋(広島)も陸軍の一大拠点でした。いざ本土決戦となりこの海域を易々敵艦が通行できるようであれば、それは国防上大きな欠陥になってしまいます。

当地における要塞の歴史が記されている

そこで日清戦争に備えて明治27年(1894)に海軍が望楼(ぼうろう)を。大正15年(1926)には陸軍によって豊予要塞が設置されました。

当初このような軍事施設の建設工事は極秘である必要から軍属のみで行われることが多かったようですが、戦局が悪化して労働力が不足するとそうも言ってられなくなります。国家総動員法に基づいた国民徴用令の成立に伴って民間人を徴用することが法的に可能になり、地域の方々が当たった話が全国各地で多く残されています。

それは強制労働の類の話では無く、今で言うところの公共工事。雇われた人夫たちは一日5円前後の賃金で工事に当たったと言います。

昭和15年(1940)米10kg…3.3円
令和2年(2020)米10kg…4,590円

この80年で約1390倍という激しいインフレーションが起きている点はさておき、当時のその賃金を現在の貨幣感覚にあてはめると日当5,000円というようなイメージでしょうか。決して割りの良い仕事とは言えませんが、現金収入に乏しい地方集落にとって軍施設がやって来ることは朗報だったようです。

 

第一次世界大戦後、鶴御崎の管理が海軍から陸軍へ移管され、近くの丹賀浦(たんがうら)に砲台が設置されます。しかしながらその砲台で暴発事故が発生。代わりに佐田岬に設置されていた砲台が移設されることになり、場所を若干改めた地点が現在灯台がある鶴御崎先端部です。
その時すでに昭和17年(1942)で戦時中。砲台工事はこちらの看板に記されているように、国民徴用令の名の下に民間人が徴用され要塞工事にあたったようです。

【関連記事/コトバスコラム執筆分】鮮やかな迷彩塗装が往時の姿を留める砲台跡<佐田岬第二砲台/愛媛県>

 

戦争の行く末を眺めていた監視台

旧鶴御崎海軍望楼(つるみさきかいぐんぼうろう/大分県佐伯市)

前述の通り鶴御崎一帯の軍事施設を築いたのは陸軍ですが、こちらは「旧海軍望楼」の名で紹介されています。

海軍(=明治)/陸軍(=大正以降)
どちらが建造したものか分かりかねるところですが、鶴御崎が海軍から陸軍に移管されてしばらくは、拠点はこの場所ではなく近くの丹賀浦であったことを考えると、廃棄せずに残っていたのでしょうか。
明治20年代当時に鉄筋コンクリート造りの建造物はそれほど多くないはずなので、陸軍によって後年造られたものであるようにも思います。

そこのところはあまり深く考えない事にします。

兵員らにより豊後水道一帯の監視や気象観測などが行われていました

上部に屋根が存在しないのは、戦後再利用を防ぐために占領軍によって爆破処分された跡。同様の破壊跡は対岸の由良半島(愛媛県宇和島市・愛南町)にある由良衛所や、佐田岬の砲台跡などでも見ることができます。

【関連記事/コトバスコラム執筆分】砲口内部に入ることが可能!本当の四国最西端<佐田岬第四砲台 / 愛媛県伊方町>

 

鶴御崎要塞を始め豊予要塞は実戦運用されることなく、終戦を迎えています。かと言ってここに戦争がなかったわけではありません。大戦末期には敵機が中国地方沿岸の軍施設・軍需工場を攻撃するために、豊後水道上空に多数飛来。紫電改のエピソードで有名な大規模な迎撃戦闘が行われたこともありました。

【関連記事/コトバスコラム執筆分】日本で唯一現存する紫電改。平和へのメッセージ<紫電改/愛媛県愛南町>

水面下では敵潜水艦が頻繁に往来してようで、ここでは聴音(=水中の音を探索する事)も行われていたようですが、敵機・敵潜水艦に対して成す術がなかったのが実情だったようです。

ウロコのような塗装模様は敵のレーダーに見つかりにくくする工夫

敵機に対して砲撃など実戦運用が行われなかった理由の一つに、発砲してしまうとこの場所に軍事施設があることが敵国に明らかになってしまう危惧もあったようです。ばれて攻撃を受けて監視拠点を失うよりは、都市空襲を行うために飛来する爆撃機等の情報を得て伝達する方が賢明という判断。

兵隊さんの中にはそんな無力無念に気が付きながらも、家族や国のことを想って日々厳しい任務に当たっていた、という方もいらっしゃったことと思います。

今の平和な日本に感謝しつつその想いに寄り添う形で、ドギーと監視台に立たせて頂きました。

 

鶴御崎灯台

 

旅の期間

平成29年12月


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