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2021-01-22

雪に覆われた兵共が夢の跡<高館義経堂/岩手県平泉町>


「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」とは松尾芭蕉のおくの細道冒頭部分として有名ですが、作中のハイライトシーンとして取り上げられることが多いこの地をドギーと訪れました。

つきひははくたいのかかくにして、いきかうとしもまたたびびとなり。と読みます

 

源義経最期の地

時は鎌倉前夜。義経は兄である頼朝に追われていた

源平合戦で活躍した源義経(みなもとのよしつね)は兄の源頼朝(みなもとのよりとも)と不仲になり、ついに諸国に義経追討の命令が下されます。命を狙われることとなった義経は頼朝の勢力が及んでいない奥州藤原氏第3代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼り、この地に匿われた。現在の岩手県平泉町(いわてけんひらいずみちょう)周辺になります。
しかしながら義経を保護していた秀衡が亡くなり、その跡を継いだ藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の代になると頼朝の圧力が一層強くなり、父・秀衡の遺言を破って高館(たかだち)に隠棲している義経を襲う。義経は応戦することなく正室の郷御前(さとごぜん)と4歳の女児に手をかけた後自害した。義経31歳、郷御前22歳。その現場がこちらです。

高館義経堂へ続く階段。こちらで入場料金支払い

平泉と言えば世界遺産・中尊寺(ちゅうそんじ)が有名。藤原氏が約100年間にわたって治めた平泉は、領内で豊富に産出される金やその貿易により大きく発展。当時は平安京に次ぐ日本第二位の都市であったほどです。
その繁栄は屋根内部の壁や柱などを全て金で覆った中尊寺金色堂(ちゅうそうんじこんじきどう/1124年建立)に見ることができます。

源義経終焉の地

平泉が莫大な経済力を有するがゆえ、幕府を開こうとしている頼朝にとって奥州藤原氏は黙認することができない存在。そこへ武芸に長けた義経が加わるとなると鎌倉幕府の存在が揺らぎかねない。事実、秀衡の時代は義経を将軍に立てることで頼朝の勢力に対抗しようとしていました。

しばらくの間手を出せずにいた両者ですが、歴史が動いたのが秀衡の死。これをチャンスとみるや後を継いだ泰衡に再三圧力をかけ義経を襲撃させた。秀衡は「義経を将軍に立てて頼朝の襲来に備えよ」との遺言を残していましたが泰衡はこれを破り、頼朝に義理立てすることで領地の存続を図ることを考えた。しかしながらこれまで義経を匿ってきたことは断罪として平泉を滅ぼされ、助命嘆願も虚しく部下である河田次郎(かわだのじろう)の裏切りに遭い殺害された。なお泰衡の首を持参することで頼朝に取り入ろうとした河田次郎は頼朝から「その力を借りなくても既に勝敗は決していた。手柄に目がくらんで主君を裏切るとは信用ならぬ」との理由でその場で斬罪に処されています。

義経の死後ちょうど500年後に平泉へ松尾芭蕉が訪れますが、この一連の争いを詠んだ句があまりにも的確です。

 

弁慶の立ち往生

階段を登り切ったところで分岐点

ここで丘の上に上がり道が左右二又に分かれます。まずは歴史順序を重んじて義経堂へ行くことにします。

高館義経堂(たかだちぎけいどう/岩手県平泉町)

この場所に義経一行が隠れ住んでいた屋敷があったとされます。その最期は前述の通り。主君を守るため武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が泰衡の軍勢に立ちはだかり、大きな大きなその身いっぱいに無数の矢を受け立ったまま往生を遂げた出来事はあまりにも有名です。

この地で短い生涯を終えた義経一家の墓所

現代では突然の豪雪などで複数の車両が動けなくなる等を「立ち往生(たちおうじょう)」と表現したりしますが、その語源は弁慶が立ったまま絶命した「弁慶の立往生」の出来事に由来する説があります。
諸説様々あるところでしょうが現代語の語源になるあたり、弁慶が歴史上の人物として人気があることが分かるエピソードであるように思います。

 

判官贔屓

衣川の戦いで自刃したとされるのは義経ではなく影武者だったという説

頼朝の追手が迫ると言う危険を察知して、平泉から更に北へ逃れていたという「義経北行伝説」があります。実際に北東北や北海道では義経伝説が数多く残されています。
更には北海道からユーラシア大陸へ渡り成吉思汗(ジンギスカン、チンギスハーン)になった説まで。全盛期には地球上の陸地25%・世界人口の約半数を支配したモンゴル帝国を建国したチンギスハーン。その孫であるフビライハーンは頼朝(=鎌倉幕府)に復讐するために二度に亘って企てた侵略が元寇(げんこう)だったとか…

真偽はともかく、人々が言い伝えの中で義経を生かしたこの心情は「判官贔屓(ほうがんびいき)」と呼ばれるもの。立場の弱い者に同情を寄せてしまう例えですが、現代では高校野球において他校を圧倒している名門校より、無名の初出場校のほうが心情的に応援したくなるように思いますが、このような感情が働くことを判官贔屓と言います。
判官(ほうがん、はんがん)は壇ノ浦の戦いの後、義経が朝廷から与えられた官位「九朗判官(くろうほうがん)」に由来するもの。その事を頼朝に報告しなかったことが、密かに朝廷に取り入り政権の奪取を狙っているとの憶測を呼び、粛清に動いたという説があります。

 

芭蕉も眺めた高館からの眺め

眺望平泉随一(ちょうぼうひらいずみずいいち)の触れ込みは違わず

-まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。
とは、おくの細道で松尾芭蕉が記したこの場所から眺めた風景。眼下を流れるのは東北一の大河・北上川(きたかみがわ/249km)。義経追討の戦の名前にもなっている衣川(ころもがわ)は、左側の堤防が途切れて橋が架かっている地点。この景色の中に藤原氏の栄華や義経最後の地が凝縮されています。

松尾芭蕉を代表する俳句はこの場所で詠まれた

来た道を戻り、丘の上の分岐点を義経堂と反対側へ向かうとあるのが芭蕉の句碑です。

夏草や 兵どもが 夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)

とは、おくのほそ道を代表する一句。

-三代の栄耀一睡のうちにして…
の序文で始まるおくのほそ道・平泉編。藤原清衡・基衡・秀衡と三代約100年に渡ってこの地を治めた奥州藤原氏。その栄華は世界中で知られていたとするのが、マルコポーロの「東方見聞録」の一説。

-莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。
作中で日本を「黄金の国ジパング」と紹介していますが、これは中尊寺金色堂の事を指しているとも言われます。奥州藤原氏が繁栄したのはまだヨーロッパと接点が無かった時代。結果的に日本へ来ることがなかったマルコポーロですが、来ずしてもその目に留まって世界に向けて発信しようと思ったのが中尊寺だったとするならば、今日の世界遺産指定も遅すぎたくらいです。

高館には松尾芭蕉の像はなく、こちらは中尊寺境内にある松尾芭蕉像

ドギーと飼主は特に芭蕉ファンということではありませんが、行くとこ行くとこでその足跡が残されているので、昔も今も旅人の性は同じなのかな、と勝手に想っています。

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高館で雪上ドッグラン

高館の駐車場でドッグラン

高館へ行っている時はドギーは車の中でお留守番。戻ってから駐車場に積もった雪の上でたくさん遊びました。

ここから中尊寺へは徒歩圏内。同行者に自家用車を中尊寺駐車場へ回送してもらうことで、ちょっとだけ「平泉おさんぽ」を楽しむことができました。

 

高館義経堂

 

旅の期間

平成31年1月


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コメント1件

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